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AMCジャヴェリン

独立系メーカー
05 /14 2016
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冬が終わり気候が良くなると、バンクーバーでも旧型車を多く見かける様になります。

AMCジャヴェリン…68年~74年まで、AMCが販売したポニーカーです。

68年発売ということは、カマロ&ファイアーバード兄弟、ポンティアックGTOが登場し、マスタングが大型化した時代に相当します。

70年に一度モデルチェンジを受けており、より大型化し、より豪華になっている辺りも、カマロ&ファイアーバード兄弟やマスタングに準じていますし、同年、ダッジ・チャレンジャーやプリマス・バラクーダーも登場しています。

写真のモデルは、その初代に当たりますが、SSTというグレードで、ビニールトップなど、より豪華な装備となっています。

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この車を一言で言うと、とにかくGMやフォードを横目で見ながら、精一杯頑張った…といったところでしょうか?

生産中止になった74年というと、マスタングが小型化し、マスタングⅡとなった時代で、他にもポンティアックGTO、プリマス・バラクーダ/ ダッジ、チャレンジャーが生産中止となり、事実上、ポニーカーの時代が終焉を迎えます。

しかし、よく考えると、オイルショックが勃発したのは73年暮れであり、74年マスタングが実に素晴らしいタイミングでダウンサイズした事実にも驚きますし、同時に、他社のポニーカーの撤退が、急激に決定したかの様にも見えます。

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まあ実際には、初代マスタングの頃に比べ、余りに大きく、豪華に、そして高価になり過ぎたポニーカーの人気も下火になっていたという事実も有るのですが…。

こうやって見ると、この車がポニーカーの戦国時代と共に生まれ、そして、終焉と共に消えた…という事実が見えてきます。

そして、この辺りからAMCの経営も怪しくなり、やがてジープの専業メーカーの様になり、最終的にはルノーの傘下に入った後、クライスラーに買収されています。
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スチュードベーカー・グランツーリスモ・ホーク

独立系メーカー
08 /23 2015
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インディアナ州サウスベンドに拠点を置いたスチュードベーカー社が、最後に発売したモデルが、このグランツーリスモ・ホークでした。

50年代には、既にビッグ3の優位性は不動のものとなり、スチュードベーカーも、パッカードとの合併で、何とか生き延びている状態でした。

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そんな中で62年に登場したグランツーリスモ・ホークですが、既にブランド末期ということもあり、デザイナーも、かつてのレイモンド・ローウィーではなくなっており、同時期のアヴァンティーなんかに比べると、何処か退廃的な香りが漂っている気がします。

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後ろにもグリルが…スチュードベーカーの伝統、「前か後ろか判らない」の名残…


かつてのスチュードベーカーは、アメリカの戦闘機P-38をイメージした様な面構えが特徴的でした。

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40年代のスチュードベーカー・チャンピオン…双胴機P-38を思わせる面構え…。以前、ライカで撮影したものですが、やはりライカって、この暑っ苦しいロスの空気まで写るんですね…。


この頃になると、ソレもなくなりましたが、まあ、この彫りの深いフロントマスクに、若干の面影を残しているとも言えるのかも知れません。

トータルの生産台数は、2年間で僅か1万4000台程度で、同クラスのサンダーバードなんかとは、比較にならない販売実績でした。

64年には、サウスベンドの工場を閉鎖し、カナダに移転しますが、その時点で、アヴァンティーも、このホークも生産中止となり、そちらも2年後には閉鎖になり、スチュードベーカーは、完全に自動車からは撤退しました。

この車、正直余りカッコいいとは思わないのですが、それでも同時代のビッグ3の製品に比べると、ヨーロッパ的な上質感と共に、非常に手の込んだ作りに見える様な気がします。

まだまだ2ドアセダンの様なクーペが大半であった60年代初頭、こんな本格的なクーペのプロポーションを採用していた辺り、アヴァンティーと並び、残念な一台だと思います。

ランブラー・クラシック

独立系メーカー
06 /26 2015
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ランブラーというブランドは、1950年よりナッシュモーターが採用し、後にAMCに受け継がれましたが、その元となるトマス・B・ジェフリー・カンパニーの歴史は古く、ランブラー銘の自転車の生産は1878年まで遡り、1902年より、車の販売を行っていました。

1916年、GM創業者ウィリアム・デュラントの片腕で、後にGMの社長となったチャールズ・W・ナッシュによってトマス・B・ジェフリー・カンパニーは買収され、ナッシュモーターズが発足しました。

以降、ランブラーのブランドは消滅しましたが、1950年に再び登場し、人気を博しました。

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後にナッシュは、同じく独立系のハドソンと合併し、AMCになり、その後ナッシュやハドソンのブランドは消滅したものも、ランブラーは行き続けることになりました。

写真のクラシックが発売されたのは60年代初頭、同時期、ビッグ3からもコンパクト、インターミディエートクラスが出始めますが、正にその先駆けともいえるモデルでした。

AMCは、後にジープを買収し、それを主力にしていきますが、60年代には、こんなアメリカ的な車を作っていたのです。
手頃な値段で品質も良く、コンパクトで燃費も良い事から、大変な人気を得たモデルで、海外でもアチコチで生産が行われた辺り、同時代のフォード・ファルコンやクライスラー・ヴァリアントなんかと似ているかも知れません。

この定評のあったブランドも、逆にAMC=コンパクトというワンパターンのイメージを作ってしまったのは事実で、それから脱却する為に、段階的にランブラーのブランドを廃止し、69年に生産を中止しています。

その後のAMCの迷走を見ると、この決断が正しかったのかは、極めて疑問が残るところです。

かつて、コンパクト、インターミディエートとして登場したビッグ3の車は、モデルチェンジ毎に巨大化して、似ての似つかない車に変貌していった事を考えると、ランブラーのワンパターンも、十分に価値があったと思うのですが…。

70年にはジープを買収しますが、やがて日本車の影響を受ける様になり、経営不振が続く様になり、79年にはフランスのルノーの傘下になった後、87年、リー・アイアコッカ率いるクライスラーに買収され、その歴史に終止符を打ちました。

ランブラーの成功=ブランドイメージの固定、それを脱却する為の迷走、そして衰退…この車を見ると、後のAMCの迷走が、まるで嘘の様に見えてしまいます。

カイザー・ヘンリーJ

独立系メーカー
10 /23 2014
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アメリカ近代造船の父と呼ばれたヘンリー・J・カイザーが、戦後、遊休地と化していた設備を利用して、民間品の市場に参入するに当たり選んだのが、戦時中の供給不足の反動により、急激に需要が増した自動車でした。

当時、経営の再建に当たり、スポンサーを探していたグラハム・ペイジ社の社長、ジョセフ・W・フレーザーと、車のノウハウを持たないカイザーの利害の一致から、カイザー・フレーザーとして、共同作業が始まりました。

同社の自動車業界の参入は、戦後、既にビッグ3の独占が動かし難い事実となっていた時代で、最後発といえるものです。

そのカイザー・フレーザーが1950年に製造を始めたのが、このヘンリーJでした。

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この車が目指したのは、正にT型フォードの現代版(当時)で、ビッグ3が年々豪華に、巨大になっていくのとは正反対に、買い易い価格を第一にしたものでした。
その結果、初期のモデルは、トランクリッドすら無く、荷物はシートを倒して出し入れしていたといいます。

それでも同時代のシボレーとの価格差は小さく、安っぽいヘンリーJよりも、普通のシボレーの方が売れたのです。

この車のもう一つ大きな特徴は、あのシアーズからも販売されたことです。
シアーズといえば、かつて通販で有名であったアメリカのデパートですが、かつてはカメラや交換レンズの様なモノも、シアーズブランドで販売していました。

当然それ等は、OEM生産品なのですが、それを車でもやっていたのです!
しかし、今より遥かにメンテナンスに手間の掛かる当時の車をデパートで販売する…というのは、やはり無理があり、上手く行きませんでした。

結局シアーズは当然ですが、カイザー自身も、その販売は低迷を続け、53年を最後に乗用車からは撤退し、以降、買収したウィリス・オーバーランド社のジープの生産を主軸に置く様になりました。
あれだけ財力の有ったカイザーを持ってしても、ビッグ3にはまるで歯が立たなかったのです。

1970年には、AMCに買収され、そして87年には、AMCごとクライスラーに買収されています。

尚、ヘンリーJは、旧三菱系の東日本重工業の手によってノックダウン生産も行われていました。
同じ頃、同じく旧三菱系の中日本重工業によってジープの生産も始まっていますが、両者は後に三菱重工業として統合されています。

1926 フリント Jr.  $6,500

独立系メーカー
08 /14 2014
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郊外の田舎町で、こんなのを見つけました。フリントJr...フリントという名前は、ミシガン州フリント、GMの創業者、ウィリアム・デュラントの出身地で、長くGMの城下町として栄えた街の名前です。

そして、このフリントというブランドは、デュラントがGMを去った後、自ら創業したデュラントモータースの一ブランドです。

ヘンリー・フォード、ウォルター・クライスラーといった自動車産業創世記の他の著名人に比べ、ウィリアム・デュラントの知名度は著しく低いというのが正直な所ですが、それは、GMにデュラントの名前を冠したブランドが無かったこと、そして、実質GMに関わった期間が余り長くなかった事も関係していることでしょう。

1910年、一度はGMの経営権を失ったデュラントは、後に始めたシボレーを元に、当時銀行管理下にあったGMの株を買い漁り、過半数を取得し、1915年、再びGMのトップに返り咲きますが、時代は既に変わっており、5年後には、再びGMを追われることになりました。

世界中、何処でも「革命」というものが成功した例は極めて稀ですが、それは、革命を起こす能力と、ソレを維持する能力が全く別のもので、革命者に前者が備わっていても、後者が備わっていないことが殆どだからなのですが、デュラントも、間違いなく前者だったと言えるでしょう。

因みに、デュラントの跡を継いだアルフレッド・スローンは、GM傘下のベアリング会社出身という極めて地味なバックグラウンドで、地味ながらも堅実に経営を維持する能力に優れた人物で、デュラントとは対極の人物だったといいます。

その後に始めたのが、デュラントモータースで、フリント、デュラント、スターといったブランドを揃えており、後に高級ブランドのロコモービル社も買収しています。
この辺りの手法は、GMと同じだと言えるでしょう。

デュラントが当時の他の経営者と大きく異なったのは、彼は根っからの商人であり、技術に関しては全くの素人であったことです。車以前には、馬車の会社を経営していましたが、それも製造は他に任せて自分は売るだけというスタンスに徹していたのです。デュラントモータースも、エンジン、車体共に外注であった様です。

1929年に起きた世界恐慌の煽りで、多くの自動車メーカーが倒産に追い遣られましたが、デュラントモータースも1931年には倒産し、デュラントも一文無しになっています。

その後、デュラントは再び自動車産業に戻る事はなく、レストランやスーパーマーケット、ボーリング場等の経営を手がけたということです。

今や、そのGMも往年の面影すら有りませんし、フリント市も、GMの工場閉鎖と共に極度に治安が悪化し、同市出身の映画監督マイケル・ムーアのドキュメンタリー「ロジャー&ミー(ロジャー=ロジャー・スミス)」で、取り上げられています。

そんな大昔の、しかも、あのウィリアム・デュラントの関わった車が、カナダの田舎町に、若しくは田舎町だからこそ残っている…ある種、感慨深いものを感じずにはいられません。

americancars4ever

アメ車のブログとして開設して11年目、車以外にも様々な身の回りの話題を取り扱っています。