ベルリン2017 トラバントの話
ヨーロッパ 20171989年のベルリンの壁崩壊の象徴として話題になったのが、東ドイツ製の車「トラバント」でした。
発売されたのは1957年で、共産主義体制故に、それ以降、大きなモデルチェンジもなく生産され続けていた為、89年当時、西側とのその技術差は如何ともしがたいもので、立派な西ドイツ製の車の間を、煙と騒音を撒き散らしながら走るトラバントの姿は、ベルルンの壁崩壊の象徴、そして新しい時代への象徴として、大いに話題になったものでした。
当時、既に西側では絶滅した2ストロークエンジンでしたが、この車は、かつての2ストロークの名門DKWの流れを汲んでいるのです。
元となった旧アウトウニオン(Auto Union)は、高級車のホルヒ、中級車のアウディ、大衆車のヴァンダラー、2ストローク及びバイクのDKWの4社が合併したもので、現在アウディのエンブレムとなっている4つのリングは、その4社を示しているのです。
アウトウニオンも、ドイツの分断によって、東西に別れ、西は2ストロークのDKWで復興し、後に4ストロークに切り替える時、アウディになりました。
東はVEBザクセンリンクとして復興し、当初は戦前のDKWを生産しながら、1957年、このトラバントの発売に漕ぎ着けました。
この車は、ボディーがダンボールで出来ている…と言って散々バカにされたものでした。
ドイツのジョークとして、
”メルセデスのSクラスとトラバントが正面衝突をした時、Sクラスの
ドライバーのすべき事は…ワイパーひと拭き…”
なんてのも有りました。
このボディーは、当初グラスファイバーで作られていたのです。初代コルベットの発売が53年…それを考えると、非常に早いことがお判り頂けるでしょう。
しかし、コルベットが少量生産で、軽量化を目指していたのとは異なり、トラバントの場合、当時、極度に鉄が不足していたという東ドイツの経済状況からの苦肉の策でもあったのです。
エンジンは600cc、横置きの2ストローク並列2気筒、馬力は23/3900rpmでした。
フィアット500が20馬力前後、シトロエン2CVが12~15馬力程度であったことを考えると、当時としては十分以上のものでした。
潤滑方式は、ガソリンの中にオイルを混ぜる「混合給油」です。後に主流となる「分離給油」が登場したのは、60年代も後半になってからのことです。
エンジンにはカバーが付き、冷却ファンによる強制空冷になっています。
このトランスミッションの配置の仕方は、現在のFFの直接の祖先とも言えるもので、寧ろFFの元祖の様に言われるミニよりも、より現代的です。
エンジン後方に設置されたガソリンタンクは、キャブレーターより高い位置に置くことで、燃料ポンプが不要ということで、同時代の小型自動車に見られたレイアウトですが、反面、安全性には問題が有り、現在は考えられないものです。
個人的に面白いと思ったのが、このフロントサスペンションです。
ダブルウィッシュボーンで、アッパーアームの代わりに左右を横置きのリーフスプリングで連結することで、非常に低コストで、シンプルかつ合理的な設計です。
フロアも完全に平らで、全長3.5m、全幅1.5mというコンパクトサイズからは感がられない程のスペースを有しています。
シートのクッションも、結構シッカリと分厚いものでした。
リアシートも、173センチの私に十分なスペースがあります。
更にトランクも、このサイズとしては十分以上のサイズですし、このヒンジ…現在のパンタグラフ式の原型とも思えるもので、限られたスペースを有効利用しています。
以上の写真は、一般的に最も有名なトラバント601と呼ばれるモデルです。
57年発売当初のモデルはP50と呼ばれ、エンジンは500ccでした。
トラバントP50…可愛らしい顔が印象的です。
1962年には、600 ccに拡大されたP60が登場しました。
そして、コチラが次期モデルのP601で、1664~90年という大変に長い期間生産されたため、一般に我々の知るトラバントというと、コレになります。
P60をベースに、主に外装のグレードアップが特徴で、ホイールベースはそのままに、全長、全幅も拡大しています。
そしてベルリンの壁の崩壊と共に、この車の愛らしい姿が西側で話題になったのです。
1989年4月の段階で620万台の受注があったものの、当時東ドイツ国内での生産台数は年間15万台程度で、注文して実際に手に入るのは10数年後というのが当たり前でした。
故に、特に必要ないけど、取り敢えず注文しておく…子供が生まれたから取り敢えず一台…という人が大量に居た為、実際の需要がどの程度であったかは不明なところもありました。
取り敢えず注文だけしておいて、キャンセルしたら…喜んで次の人が買ってくれるので、問題なかったのです。
ベルリンの壁崩壊によって、東ドイツの産業は皆一気に苦境に追いやられました。
仮に50年代のトップレベルとは言ったところで、90年代の西側の技術に太刀打ちする術はありませんでした。
トラバントの歴史は、常に社会主義政権との戦いであったと言われ、発売に漕ぎ着けるまでにも、最終的に一番大変だったのが、役人を説き伏せる事であったと、当時の技術者のインタビューで語られていました。
そんな中で登場したのが、トラバントの最終型、1.1です。
この車は、フォルクスワーゲン・ポロの1.1リッターエンジンを積んでおり、トラバント唯一の4ストローク水冷4気筒車です。
実はこのプロジェクトは、84年頃からP1100プロトタイプとして始まっていたのですが、役人との折り合いが付かなかったこともあり、実際に発売される事は無く、お蔵入りになっています。
その代わり?として1.1が発売に漕ぎ着けたのは、ベルリンの壁崩壊後の1990年になってからでした。
この車は、寧ろVEB ザクセンリンクの雇用を守ることが主目的であったと言われています。
しかし、同時に大幅に値上がりしたこと、そして、西側から大量に西ドイツ車の中古車が流入したこともあり、販売は不振に終わり、この事は、トラバントの市場が統一ドイツに於いて皆無であることを示し、わずか一年で39.474 台生産された後に生産中止になっています。
以降、トラバントというと、まるでジョークの様に扱われ、無意味に破壊されたり、無残な扱いを受け、急激にその台数を減らしました。
当時のドイツ人には、この車の歴史的価値を理解できなかったのです。
そして、現在の台数は24879台という事です。
現在、ドイツの市街地では、この様な古い車を通常の方法で使う事はできませんが、歴史的価値のある車種に関しては、特例が設けられているということで、VWビートルなんかと共に、トラバントもソレに相当します。
現在ベルリンで見かけるトラバントというと、殆どが観光用で、実際に運転を体験できるツアーもあります。
あれから30年近くも経つというのに、相変わらずこういうのがアトラクションになっているのが面白いですね。
しかし、こうやって見て行くと、結構合理的な作りをしていて、面白いですね。東ドイツとはいえ、改めて当時のドイツの技術水準の高さを垣間見た思いがしました。
現在、Youtubeなんかでも、この車のインプレッションを観る事ができますが、その多くが、現在の車と比べてバカにしています。
残念ながら多くの人が、「当時の技術レベルでは」という思考回路を持たずに、単純に現在の価値観で蔑んでいるのには、呆れるとともに、非常に腹立たしくも思います。
50年代後半のこのクラスというと、VWビートルやミニではなく、シトロエン2CV、フィアット500といった辺りになるのですが、その辺りを理解していない人が多すぎます。
尚、ココの写真は、ベルリンにあったトラバントの博物館で撮影したものです。小さな博物館がら、結構長居してしまいました。
そして、訪問者の殆どがドイツ語を喋っていた様です。
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