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アメリカ車のブランド GM編

GM
09 /29 2008

本来なら最初に書くべき事だったのですが、改めてココで紹介させて頂きます。

GMはデトロイトに本拠地を置く、世界最大の自動車メーカーです。北米では、キャデラック、ビュイック、ポンティアック、シボレー、GMC、サターン、ハマー等のブランドを展開しています。

キャデラック
1903年、ヘンリー・リーランドによって創業。当時、手作りの要素が多く、一台一台が微妙に違うのが当たり前だった中で、「部品の標準化」を実現し、同一モデル間の部品の互換性を保証する事で、高品質な車を生産していました。1908年、GMに参加し、GMの最高級ブランドとして、現在に至っています。因みにキャデラックとは、フランス人の開拓者で、ミシガン州を開拓した人物と言われています。

ビュイック
1903年、デビッド・ビュイックによって創業、1904年、ウィリアム・C・デュラントの手に渡り、コレを元にデトロイト周辺の様々な自動車メーカー、部品メーカーを買収し、1908年、GMを創業することになりました。
GMの中ではキャデラックの次に高級なブランドとして知られていますが、昨今は特に目新しいモデルも、独自の技術も無く、他のブランドとの差は、外観、装備に留まっているというのが正直な印象です。

オールズモビル
1897年、ランサム・E・オールズによって創業。アメリカ最古のブランドとして長年親しまれてきましたが、残念ながら2004年モデルを以って、長い歴史に幕を下ろしました。
GMの中級ブランドで、同時に走る実験室とも言われ、新技術を最初に搭載するブラントとしても知られていました。ところが70年代以降、これといった目ぼしいモデルも無く、ビュイックのデザイン違いといった車が殆どとなってしまい、低迷を続けました。
90年代半ばに、ブランド存続を賭けて登場した高級車、オーロラの不振が、同ブランドの廃止を決定付けたと言えるでしょう。

ポンティアック
前身はオークランドと呼ばれ、1926年よりポンティアックと呼ばれる様になりました。かつては、比較的大人しい性格付けの車だったのが、60年代以降、後に映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で一躍有名となったデロリアンを生産した、ジョン・デロリアンの元、若者向けの高性能のイメージで成功していきました。

シボレー
レーシングドライバーのルイ・シボレーと、既にGMを離れていた創業者、デュラントが、1911年に創業しました。
当時、爆発的なヒットとなったフォードT型のライバルとして、より豪華で、より快適で、カッコいい車として、T型よりも少し高い値段で売り出し、大人気となりました。
自動車にデザイン、マーケティングという概念を持ち込んだことは非常に大きな功績と言えるでしょう。
その成功で高騰した自社株を元に、当時経営危機にあったGMのか半数以上の株を買占め、
デュラントはGMの経営権を取り戻し、それと同時に、シボレーもGMに組み込まれました。

かつては、大衆車ながら、少し前のキャデラックのデザインを真似ることで、大変な人気を誇りましたが、現在は大衆車=平凡のジンクスに苦しみ、魅力の無い車が多くなってしまっています。

ハマー
元々AMC(ジープの販売元)の軍用車部門が、同社がフランスのルノー傘下入りする際に、軍需産業を国内から流出させない様、分離、独立してAMジェネラル社となったものです。当初、軍用車専門だったものが、90年代のSUVブームの際、市販も開始しました。その切っ掛けは、現カリフォルニア州知事、アーノルド・シュワルツネッガーの要望であったと言われています。
現在はGM傘下に入っていますが、昨今の原油高、景気低迷に於いて、深刻な販売不振に陥っており、売却、もしくは部門閉鎖は確定していす。

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GM10計画 「アメリカ産業史上最悪の失敗」

GM
09 /28 2008

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1982年、GMの主力となるべき、次期中型ファミリーカーのプロジェクト「GM10計画」がスタートしました。

当時のアメリカでは、日本車がコンパクトカーの分野で急速にシェアを拡大していおり、特にアメリカにとって得意分野である中型車は絶対に外す訳に行かないということで、徹底的に日本のメーカーの研究を始めました。

その結果
トヨタの工場は、自分達のソレよりも遥かに自動化がなされている...ということが判りました。

そして、トヨタ以上に大量のロボットを導入し、徹底した工場の自動化を推し進める決断が下されたのです。

オマケに7箇所の専用工場で、それぞれが年間25万台を生産し、トータルでアメリカ市場の21パーセントを占めるという、壮大な計画でした。

ところが

1.莫大な投資をして導入したロボットが頻繁に故障し、一つ不具合が発生する度に全工程 がストップし、更なる生産性の低下を招いた。

2.ロボット専門のエンジニアチームを常時待機させる必要があり、人件費削減の為のロボ ット導入が、更なる人件費の高騰を招いた。

3.徹底的な自動化の結果、融通が利かなくなり、一つの生産ライン上で単一車種しか生産出来なくなってしまった。「程々に」自動化された日本では、一つの生産ラインで複数の車種を組み立てるのが普通で、販売状況に応じて、柔軟に対応出来る。

その他にも、80年年代に発売されたGM車は、どれも同じ様なデザインで、グリルとテールランプ以外は皆同じと言っても過言で無い位でした。当時、評論家の徳大寺氏が、「トヨタ自動車金太郎飴論」という表現を使いましたが、その比ではありません。
その反省から、各部門毎、セダン、クーペの差別化を徹底した結果、更なるコストアップになった上、そのデザインも、「如何にツマラナイデザインをするか競った様な」魅力の無いモノばかりでした。

ビュイック・リーガル
オールズモビル・カトラス・スプリーム
ポンティアック・グランプリ

以上の3車種が、プロジェクトの立ち上げから6年後の88年、ようやく発売に漕ぎ付けましたが(途中でシボレー・ルミナを追加)、事もあろうに、中型ファミリーカーのはずが、用意出来たのは2ドアクーペのみで、4ドアセダンの登場は、更に2年の歳月を要しました。

当初計画にあったワゴンは立ち消えとなり、クーペは、同クラスのサンダーバード、ル・バロンには遠く及ばず、セダンも既に発売され、人気を呼んでいたトーラス/セーブルにも及ばず、それどころか、同じくGMの旧いビュイック・センチュリー/オールズモビル・カトラス・シエラと比べても代わり映えのしない有様でした。

一つの車種の開発費としては、天文学的とも言える、70億ドルの結果がコレです。肝心の投資が、良い車を作るのでは無く、全てが無駄な設備投資に浪費されてしまったのです。
因みに1台販売する毎に、2000ドルの赤字という統計すらありました。

車という製品を理解せずに、全てを数字の理論で動かそうとする、アメリカの経営者ならではの失敗と言えるでしょう。当時のCEO、ロジャー・スミス氏は、雑誌のインタビューで、失敗の原因を聞かれて「分らない」と答えています。少しでも車や生産現場ことが分かる人なら、容易に想像が付く問題でも、アメリカ産業を牛耳る「金勘定屋」には全く分らない、つまり、アメリカの社会構造故の出来事と言えるのかも知れません。

それ故に、GM10計画は、「アメリカ産業史上最悪の失敗」として記憶されています。

そして、その複雑極まりない専用の生産ラインは、モデルチェンジにも天文学的な金額を要し、次期モデルの登場は最初のモデルのラインオフから10年近くの歳月を要した上、これまた日本車の足元にも及ばない車でしかありませんでした。

かつて、GMの中型ファミリーカーと言えば、アメリカの最量販車種で、日本車はセカンドカー以下の存在でしがた、今や立場は完全に逆転し、GM車=フリートカー、レンタカーといった印象が定着してしまいました。
3年前のバンクーバー訪問時、タクシーに採用されていたこれらの車も、今はトヨタに取って代わられてしまっています。



写真上:

ビュイック・リーガル・クーペ。2008年8月、ロス、ダウンタウンにて撮影。全長5mもある様には見えない、貧弱なプロポーションです。
特にCピラーと、リア、ホイールアーチとの位置関係がおかしく、安定性に欠けるデザインです。


写真中:

オールズモビル・カトラス・スプリーム。2008年8月、バンクーバーにて撮影。セダンとクーペが全く違うプロポーションなのがお判り頂けるでしょうか?


写真下:

シボレー・ルミナ。同上、ロス、ダウンタウンにて撮影。
同時代のアコードを、よりつまらなくした様なデザインです。発売時期からして、アコードの真似をする時間は無かったはずですが・・・。

ヒュンダイ・ポニー 韓国初の国産車 Hyundai Pony

輸入車、他・・・
09 /27 2008

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アメリカ車ではありませんが、消え行く車ということで、取り上げます。

1985年、プラザ合意によって、日本は急激な円高に見舞われることになりました。それまで値段の割りに性能と信頼性が良いということで売れてきた日本車も、大幅な値上げをせざるを得ず、同時に、根本的に発想の転換が必要になりました。

そんな時、従来の日本車の価格帯で、カナダで爆発的に売れ始めたのが、ここで紹介するヒュンダイ・ポニーでした。

ヒュンダイが自動車産業に参入したのは1968年で、フォードのノックダウン生産から始まりましたが、自前のブランドでの車作りは、76年に発売されたポニーが最初で、同時に韓国初の国産車でもありました。
機械的には、70年台の三菱・ランサーをベースにしており、ボディーにはフォードの影響も垣間見ることができます。

カナダ人からすると、日本も韓国も同じ様なモノ、そして、ポニーにも当然の如く日本車と同等の品質を、無意識のウチに求めてしまったのでした。
結果は惨憺たるもので、故障に次ぐ故障、そして貧弱なサービス網、部品の流通の問題から、修理にも事欠く自体になってしまいました。

驚異的な低価格で起こした「ヒュンダイショック」でしたが、後に品質の悪さで、不本意ながら再び「ヒュンダイショック」を起こしてしまったのです。

結局売れたのは最初の2年ほどで、それ以降は、長い間、韓国車に対するネガティブなイメージに苦しむことになりました。
ポニーの生産立ち上げに立ち合った日本人の製鉄技術者の話では、プレス時に鋼鈑にヒビが入るという、信じられない現象は頻発したということでした。

私がバンクーバーに滞在していた96年当時、結構街中で見かけたものでしがた、流石に今回、2週間のバンクーバー滞在中、見掛けたのはコレ一台のみで、オーナーに頼んで写真に収めてきました。曰く、何度か韓国人が写真を撮って行ったということです。
10数年前ですら、韓国国内でポニーを見掛けることは皆無だったということで、当時、カナダを訪れた韓国人は、一様に街中を颯爽と?走り去るポニーの姿に驚いていました。

そして現在の韓国人の若者は・・・ポニーの姿さえも知らないということで、時の流れを感じずにはいられませんでした。


写真:ヒュンダイ・ポニー、2008年8月、バンクーバーにて撮影。今回の旅で見かけた唯一のポニーで、しかも市内で最も治安の悪い地域ででした。

因みに、このモデルは、衝突安全性の関係で、アメリカには輸出されていません。

リンカーン・コンチネンタル・マーク3/ 4 Licoln Continental Mark Ⅲ/Ⅳ

リンカーン
09 /21 2008

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マスタングの成功で、一躍有名になったリー・アイアコッカ氏の次の仕事は、リンカーン・マーキュリー部門の再生でした。

60年代後半、リンカーンの販売台数は、キャデラックの1/6に過ぎず、同じく中級ブランドのマーキュリーも振るわず、フォードからのステップアップ組みを、みすみすGMにさらわれて行く状況にありました。特に中高級車は利幅が大きいだけに、深刻な問題でした。

アイアコッカ氏が同部門のラインナップを検証した結果、全ての車種が厚化粧をしたフォード車に過ぎず、顧客にアピールするものが何も無いという事に気付きました。

そこで、氏が入社前の会社訪問時に感激したという初代リンカーン・コンチネンタル、そして前述したマークⅡの様な個性の強いモデルが必要だということになったのです。

そして68年、念願のマークⅢが市場に投入されました。サンダーバードをベースに、旧マークⅡのデザインエッセンスを存分に盛り込み、徹底的に装備を高級化した、この車は、市場でも大好評をもって迎えられました。
日本でも非常に人気のある車で、後に発売されたマークⅣでは、牙城であったキャデラック・エルドラードを抜くまでに成長しました。
ここでも、既存のシャシーを徹底的に利用する、アイアコッカ流の車作りが存分に発揮されています。

マークⅣは、写真でも判る様に、マークⅢのデザイン的特徴を、より強調しており、Cピラー上の楕円形の窓が、よりエキゾチックな雰囲気を醸しだしています。
ただ、同時にかなりのコストダウンも行われており、入念な仕上げを施されていたマークⅢを「最後のアメリカ製高級車」とする声もあります。

それにしても、改めてこの頃の車を眺めると、やたらと長い前後のオーバーハング、トレッドの割りに、やたらとボディーの幅が広いことがわかります。この辺りからも、スペースの有効利用という概念が、全く無いことが伺えます。


写真上:マークⅢ、2005年8月、メルローズにて撮影。こうして見ると、初代マスタングと共通したプロポーションであることが判ります。

写真中:マークⅣ、2005年8月、ロングビーチにて撮影。開閉式のヘッドライトは、独特な風貌を作り出しています。

写真下:同じくマークⅣ。巨大はトランクの出っ張り、Cピラー上の窓は、日本車には無いデザインで、非常に好評でした。

Avanti 2  スチュードベーカー・アバンティ ~ アバンティⅡ

独立系メーカー
09 /20 2008

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現在、アメリカの自動車メーカーは、GM、フォード、クライスラー、いわゆるビッグ3が残るのみとなっていますが、以前は、インディペンデント(独立系)と呼ばれる、規模の小さいメーカーが幾つも存在していました。

その中で、インディアナ州サウスベンドに本拠地を置いていたスチュードベーカー社は、比較的上質な車を作っていることで知られ、工業デザイナーとして著名なレイモンド・ロウィー(コカコーラのボトル、タバコのピースのパッケージが有名です)の先進的なデザインが人気を呼んでいました。

しかし、50年代も後半になると、圧倒的な資本力に物を言わせたビッグ3のシェアは90パーセントを越えるまでになり、独立系メーカーの存続は難しくなり、合併等新たな道を模索する様になりました。スチュードベーカーも例外では無く、パッカード社と合併し、起死回生を賭けたモデルとして、アヴァンティを投入しました。FRP製のグリルレスのボディーは、今見ても新鮮なもので、当時はさぞかし奇抜に見えたことでしょう。しかし、この車をもってしても、ビッグ3の絶対的な販売力には太刀打ちできず、64年には、同社はアメリカ市場を撤退、カナダに拠点を移しましたが、2年後にはカナダからも撤退し、自動車生産からは身を引くことになります。

そのカナダ移転に際して、アヴァンティの生産設備を引き取った数社のディーラーの手で再生産されたのが、ココで紹介するアヴァンティ2です。

当初、生産を継続させる為に、ビッグ3、そしてAMCにも協力を求めたものの、全く良い返事は得られませんでした。それ程、当時は理解され難い車だったということでしょう。

その後は、オーナーを数回代わりながら、90年頃まで少量ながら生産されていた様です。最後の頃には、オリジナルには無かった、コンバーチブルも用意されていました。
日本では、オクズミ商事という会社から輸入販売されていましたが、80年代、世田谷の環八沿いという、東京でも最も珍しい車の集まる地域に住んでいながら、一度も目にした事はありませんでした。

90年代に人気を博したドラマ、「ビバリーヒルズ90210」の中で、時々映された駐車場のシーンで、同車が停まっていたのですが、もし偶然で無いとしたら、なかなかのセンスだと思いました。

現在も、アヴァンティモータース社http://www.avantimotors.com/index.htmlは操業中で、カマロ・ファイアーバードのシャシーをベースにした新型車を生産しています。

尚、スチュードベーカー社自体は、車業界からは完全に撤退しているものの、投資会社として存続している様です。

写真:2005年9月、ロス・メルローズ近郊にて撮影。黒い方が、アヴァンティー2です。マツダRX8のリア廻りの処理に、同車の面影を見て取ることができます。

コンチネンタル・マーク2 Continental MarkⅡ

リンカーン
09 /20 2008

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リンカーンは、フォードの高級車部門で、元々はキャデラックの創業者、ヘンリー・リーランドがGM退社後に起こした会社で、後にフォードによって買収されています。キャデラック、リンカーンと、アメリカを代表する2大高級ブランドが、同一人物によって創業されたことは、意外と知られていません。

リンカーン・コンチネンタルという車は、戦前、ヘンリー・フォードの息子、エドセル・フォードによって開発されたと言われています。大衆車一筋で来た父に対して、デザイン、装備の重要性を必死で説いて来たエドセルならではの作品で、V12エンジンを積んだ、手作りの非常に上質な車で、48年モデル(49年以降が所謂戦後モデルと言われています)まで生産されていた様です。

そして、戦後になって、その栄光を再び・・・ということで56年モデルとして登場したのが、写真のマークⅡでした。既に紹介したサンダーバードとも、フロント廻りのデザインに共通点が見て取れます。そして、トランクにある、スペアタイヤの形をした出っ張りは、戦前のコンチネンタルが、当時、時代に逆行して、トランクにスペアタイヤを取り付けて以来の伝統で、、このシリーズの最終モデルで、90年代終り頃生産中止になったマークⅧまで引き継がれました。

生産工程の殆どが手作業によって行われ、価格も1万ドルと、当時のキャデラックの最高級グレードの倍、ロールス・ロイスと同等の価格でした。
余りに高価格であった為に、生産期間も僅か2年、3000台程が生産されたに過ぎません。そして、その顧客リストには、エルビス・プレスリーやフランク・シナトラといった有名人も名を連ねています。

これだけ高価な車であっただけに、現存率も高く、約半数が残っていると言われています。それでも、博物館以外で現物を見るのは非常に珍しく、バスを途中下車してまで、写真を撮ってきました。

因みにマークⅡは、リンカーンでは無く、この車を販売するために設立された「コンチネンタル部門」から販売されており、そして正式名称はリンカーンではなく、「コンチネンタル・マークⅡ」となります。

マークⅡの生産中止後、コンチネンタル部門は廃止され、58年モデルにてリンカーン・コンチネンタル・マークⅢが販売されていますが、こちらは同世代の「リンカーン・コンチネンタル」の一グレードに過ぎず、マークⅡとは、デザイン的にも関連性はありません。

このマーク2の後継としてのマークⅢが登場するのは、それから10年後のことでした。
これは、先にマスタングで大成功を収めた、リー・アイアコッカ氏の手によるもので、セールス的にも大成功していますが、マーク2の様な手作りの少量生産車ではなく、サンダーバードをベースにした、大量生産車でした。


写真:緑の方が、コンチネンタル・マークⅡ、黒い方がアヴァンティー2。この2台を、しかも同時に見るのは、正に奇跡と言って良い程で、思わず途中下車しました。
2005年9月、ロス、メルローズ近郊にて撮影。
スペアタイヤ状の出っ張りの部分に、本当にスペアタイヤが収納されています。後に発売されたマークⅢ以降は、単なる装飾となっています。

2代目 キャデラック・セビル  Cadillac Seville

キャデラック
09 /20 2008

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写真は、2代目のセビルです。セビルと言う名前は、元々は50年代に2ドアクーペ、エルドラードの最高級グレードとしての限定販売モデルでしたが、正規のカタログモデルとして登場したのは、76年モデルとしてでした。

全長5.8m、幅2m、エンジン7.7~8.2リッターと途轍もなく大きいキャデラックの一連のモデルと比較すると、全長5.2m、幅1.8m少々と、異例な程コンパクトな車で、ヨーロッパサイズのキャデラックとして、第一次オイルショック後の原油高を背景に、かなりの売り上げを記録しました。キャデラックのラインナップ中、一番サイズが小さいながらも、価格は一番高く、それが受け入れられたというのも、やはりオイルショックという時代ならではの事だと言えるでしょう。

そして、2代目として登場したのが、写真のモデルです。先代の平凡なスタイルと比べると、リア廻りを大きく斜めに切り落とした「スロープドバック」と呼ばれる処理が特徴的で、大いに賛否両論を呼びました。
中には「デザインスタジオの屋根が崩壊して、そのままの状態でクレイモデルにGoサインが出てしまった」「壁に後ろをぶつけた車」などという痛烈な批判もありました。

実際には、昔のロールス・ロイスのモチーフを現代風(当時)にアレンジした物なのですが、やはり全体のバランスとしては、もう少しフロントを短くするか、リアをもう少し延ばすかした方が、よりバランス良くなると思います。

私個人、当時は変な車だと思ったものですが、現在の目で見ると、結構気に入っていたりします。そして、このスタイルながら、後席やトランクのスペースを拡大しているというのも意外です。

トランク廻り以外のスタイルは、先代のセビルと余り変わらない印象ですが、機械的には、68年モデル以降FF化されているエルドラードのシャシーを共用する様になっています。

エンジンでは、8-6-4と呼ばれた、所謂気筒休止エンジンも設定されていました。走行状態に応じて、8気筒、6気筒、4気筒と切り替わるシステムは、現在ハイブリッドカーなどで見直されていますが、当時は何かとトラブルが多く、この一代で消滅してしまいました。

トランスミッションも、4速オートマチックとなっており、燃費の改善にも役立っています。

こうして改めて見て行くと、デザインばかりが話題になり勝ちなこの車も、意外と技術面でも頑張っていたことが分ります。ただ、当時はアメリカ車全体の品質が非常に悪かった時代でもあり、そういった面が目立たなくなってしまったのも事実ですが・・・。
第二次オイルショックの影響もあり、賛否両論を巻き起こしながらも、それなりに売れた車で、一頃は街中でよく見かけたものですが、2008年8月、3週間の北米滞在で、一台も目にしなかったのは、寂しい限りでした。

写真:キャデラック・セビル。2005年9月撮影。80年代初頭のモデルです。こういうシックな色がお似合いです。

Ford Thunderbird

フォード
09 /13 2008

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フルサイズのラグジュアリークーペとして親しまれてきたサンダーバードも、発売時は2シーターのスポーティーな車でした。

太平洋戦争でヨーロッパに駐留した多くのアメリカ人が、彼の地で初めて目にしたのが、アメリカには無い、様々なスポーツカー達でした。馬に代わる交通手段として発展してきたアメリカの自動車とは違い、裕福層の道楽として発展してきたヨーロッパでは、自ずと趣味性の高い物が多かったのです。

当時、同様のセグメントには、既にコルベットが市場に出ていましたが、サンダーバードは、スポーツカーというよりは、パーソナルクーペといった性格付けでした。

ところが、この当初のスタイルを維持したのは最初の3シーズンのみで、58年には、早くも4シーターにモデルチェンジしました。当初のスタイルは崩れてしまったものの、逆に販売は大幅にアップしました。

それ以降は、モデルチェンジ毎に大型化と共に豪華になり、当初とは似ても似付かない車になってしまい、その反省から、マスタング(開発当時、ヘンリー・フォード2世が提案した名前は、サンダーバードⅡだったと言われています)が生まれたとう経緯があります。因みにマスタングは、スポーティーな車でありながら、サンダーバードの教訓から、当初より4シーターとして登場しました。

写真:1956年式サンダーバード。2005年9月、メルローズにて撮影。2シーズン目のモデルで、デザイン的にも一番完成度が高いと言えるでしょう。翌年には、リアフェンダーが鋭角状に尖って、所謂当時の流行に合わせたスタイルになりました。

Jeep Cherokee

クライスラー
09 /12 2008

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84年に登場。この手の車は、ピックアップトラックとシャシーを共用しているものが多いのですが、この車は専用設計で、独立したフレームを持たないモノコックボディーが特徴です。
クライスラーに買収される前のAMCによって開発、発売されましたが、その親会社であったルノーの影響か、比較的コンパクトな車体が特徴で、90年代前半、SUVがブームとなった日本でも、大いに人気を博しました。

日本では、90年代初頭から、ホンダがジープの販売に乗り出しました。SUVブームの中、自前の車種を持たないホンダは、他にも、ランドローバー・ディスカバリーをホンダ・クロスロードとして販売していました。
チェロキーの人気は、370万円という価格が比較的リーズナブルに感じられた事、アメリカ車として初めて右ハンドルを用意したことも大きいと言えるでしょう。
加えてホンダから販売されているというのも敷居を下げるのに大きく貢献しました。
実際、ホンダが品質管理に関わる様になって、劇的に初期トラブルが減りました。特に初年度だけで120箇所以上の改善要求をを出したというのは有名な話です。

当時のホンダは、バブルの崩壊、新型エンジンレイアウト、シャシー、トランスミッションと、途轍もなく金の掛かったインスパイアの不振のお陰で、台所事情は苦しく、チェロキーが唯一目標売り上げを達成しているというのも、あながち間違いでは無い状況でした。

ところが、その人気を余り快く思わない人達も居たのです。事もあろうに、それはクライスラー自身でした。自分達の車を軒並みホンダに持っていかれるのが悔しかったのです。
そして、ホンダとしても、売ったものの、あまりに故障が多く、他のホンダの車と共通性の無いメカは、サービスの現場でも嫌われることになりました。
そんな具合で、お互いの思惑の一致から、非常に上手い具合に円満離婚ということになりました。

しかし、SUVブームが既に下火になっていたこと、そして、所詮はホンダの販売力あっての人気であったため、クライスラーが販売する様になってからは、全く販売は振るいませんでした。

後に上級車種のグランド・チェロキーが発売されましたが、設計が新しい分、ネジも少なく(チェロキーは異常にネジの多い車でした)、より近代的に見えたものの、やはり品質的にには大したこと無く、修理代が高く付くことの多い車でした。修理代が何時も1000ドル(スラングで1グランド)を越えるからグランド・チェロキーなんて言われる始末でした。

写真:ジープ・チェロキー。サンタモニカにて撮影。この手は本当に見かけなくなりました。

フォード・マスタング Ford Mustang Part2

フォード
09 /12 2008

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カマロ/ファイアーバードの登場後、マスタングも、より豪華に、よりパワフルに・・・とモデルチェンジを実行しました。長いこと、日本でマスタングというと、この2代目のマッハⅠを意味した位、インパクトの強いモデルでした。

ところが実際には、大型化、高性能化は、高価格化をももたらし、それまでの幅広い客層を逃してしまう結果となり、売り上げは低迷しました。
かつて、比較的リーズナブルな価格で登場したサンダーバードが、モデルチェンジ毎に大型化、高価格化してしまったため、当初のサンダーバードのポジションを引き継ぐべく登場したマスタングまで、同様になってしまったのです。

そして70年代初頭、マスタングを当初のサイズに戻すべく計画がスタートし、74年モデルとして、マスタングⅡが登場しました。フォードの小型車「ピント」をベースにした車で、サイズ的にもデザイン的にも初代モデルへの回帰を実現しました。因みに、その生産第一号は、本田宗一郎氏に贈られています。

現在マスタングⅡというと、失敗作という烙印が押されていますが、実際には、発売直後に第一次オイルショックが到来したことも手伝って、かなりの売り上げを記録しました。
ただ、車としての魅力という視点から見ると、インパクトに欠けること、そしてV8エンジンが落とされたこと(75年モデルで復活)、排ガス規制と共に大幅にパワーダウンした事もあり、その辺りから「オイルショックで牙を抜かれたマスタング」などという後世の評価が定着してしまっています。ところが、実際に発売されたのはオイルショック前であり、当時、モータートレンド誌のカー・オブ・ザ・イヤーも受賞しています。

おまけに、ベースとなったピントが追突~炎上という欠陥を隠し続けた事(リコールするよりも、賠償金を支払った方が安いという試算からで、人の命をも金で計算するという、企業モラルを大いに問われた事件でした)が問題になったこともあり、その辺りも現在の評価が低い原因と言えるでしょう。

そして79年、80年モデルとして写真のモデルが登場しました。ご覧の様に、非常に無個性なデザインだと言えるでしょう。当時関係を持ち始めたマツダの影響?とも思える位、何処と無くマツダの車に見えなくもありません。
それでも、コンパクトな車体に、十分以上のパワーを持つこの車は、小気味よい走りが魅力で、相当の売り上げを記録し、90年代初頭までのロングセラーとなりました。

カナダで整備をした車は、殆どがこのタイプでした。当時実際街で見掛けるマスタングといえば、一番多いのがこのモデルで、次が初代で、マスタングⅡは、レストアを受けていない、当時のままの物が結構走っており、一番見かけないのが、2代目でした。
大きさも、日本の5ナンバー車よりも、若干幅が広い程度でした。北米では、特殊な車と化したカマロ/ファイアーバードと比較すると、リーズナブルな価格でカジュアルに乗れる車として人気を博しましたが、特に日本では、余りに無国籍なデザインから人気が出ることは無く、アクの強いカマロ/ファイアーバードの方が遥かに人気がありました。

93年に新型モデルが登場するまで、実に14年に及ぶロングセラーとなったこの車ですが、実は80年代にモデルチェンジの計画が着々と進んでいました。その計画とは、マツダが設計を担当するというものでしたが、日本製のFFという新型は、マーケットリサーチでの評判も芳しく無く、結局、その車は、フォード・プローブという別の名前で発売され、それ故に、この3代目が異例のロングセラーになったのです。

因みにこの車も、第二次オイルショックによって小型化したという記事を時々見かけますが、この車が登場したのもオイルショックの直前であり、間違いです。

歴史的に見て、マスタングが高級車であったことはありません。何時の時代も比較的リーズナブルな値段で買えるスポーティーな車で、同時にタキシードを着て、ビバリーヒルズに乗り付けても粋に見える、クラスレスな魅力のある車でもあります。

写真上、中:2ドアクーペ。無国籍な雰囲気で、何処と無く、旧オートラマの車に見えてしまいます。

写真下:3ドアハッチバック。この手の車としては、トランクスペースも後席のスペースも実用的なものでした。

americancars4ever

アメ車のブログとして開設して11年目、車以外にも様々な身の回りの話題を取り扱っています。