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レガシィ「ツーリングワゴン」2014年で廃止

日本車
10 /31 2013
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レガシー・ツーリングワゴン・・・正にハチャメチャなデザインです。ここまで酷いと、フォトショップで弄ることも不可能です。


富士重工業は主力乗用車「レガシィ」のうち、ワゴン車の「ツーリングワゴン」を2014年内に廃止する。

1989年の登場以来、アウトドア向けの「RVブーム」を先導してきたが、最近はワゴン車の人気低迷などで販売が落ち込んでいた。

セダン「B4」と、車高の高いスポーツ用多目的車(SUV)「アウトバック」は存続させる。富士重工は14年内に、レガシィより一回り小さい新型ワゴン車「レヴォーグ」を発売し、新たな需要を掘り起こす考えだ。

レガシィは、独自の水平対向エンジンと四輪駆動を採用し、96年度には国内販売が年9万台を超えたが、2012年度は2万4207台に落ち込んでいる。
最終更新:10月31日(木)8時56分

レガシー・ツーリングワゴンが生産中止になるとは・・・。

私も長年スバルに関わってきましたが、特に日本では、レガシーといえば、圧倒的にワゴンでした。

やはり決定の理由は、「市場の変化」ということだそうですが、実際にそうなのでしょうか?

レガシーが最初に登場したのは89年、丁度バブル後のRVブームに乗って、売り上げを伸ばし、大変な人気を得ました。
その後、他社同クラスが軒並み3ナンバーに拡大した中、レガシーは5ナンバーで通したことも、人気の理由でした。

それが、先代モデルでサイズが拡大され、更に現行モデルでも拡大されました。
更に悪いのが、この凄まじいデザインです。

この車が、以前の職場に配送された時、余りの薄らでかさ、そして、ヨレヨレのボディーラインに驚いたものでした。
先代は、拡大したものの、少なくともシャープなデザインを持っていたのですが、コイツは単に肥満しただけでした。

新型エンジンがやCVTと、何かと金のかかったモデルチェンジであった割には、明らかに旧型よりカッコ悪くては、売れる訳がありません。

どのメーカーも、売れなくなると、決まって「マーケットの変化」を理由にしますが、殆どの場合、己からマーケットに適合しなくなり、そして、マーケットから見放されているのです。

取り敢えずアウトバックは残る様ですが、コチラも、レガシーワゴンよりも更に薄らデカイだけに、一体どうなることやら・・・。

セダンは元々売れていないので、そうなると、レガシーというブランドの終焉も、そう遠くないかも知れません。

販売不振に陥った時は、新しいブランドを出す前に、今有る馴染みの有るブランドを原点に戻す勇気こそが重要です。
 
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パナ子会社、全社員250人退職へ プラズマ生産 今年度末終了

ニュース
10 /30 2013
プラズマパネルやプラズマテレビを生産するパナソニックの子会社、パナソニックプラズマディスプレイ(PPD、大阪府茨木市)が、生え抜き社員約250人を平成26年3月末までにすべて退職させる方向で調整していることが29日、分かった。早ければ11月中に希望退職の募集を始め、応じない社員についても生産を終える3月までに雇用契約を終了させる。

パナソニックからPPDへ出向している従業員については、パナソニックグループ内の配置転換で対応する方針で、近く労働組合に協議を正式に申し入れる。

PPDは平成12年10月に設立され、資本金は356億円(25年3月現在)。17年から稼働した兵庫県尼崎市の工場を建設する際に県から補助金を受け取ったほか、従業員は地元から積極的に採用した。

しかし、2008(平成20)年のリーマン・ショックを境に世界的に薄型テレビの需要が急減。多額の投資を重ねたプラズマ事業は赤字に陥り、パナソニックが25年3月期まで2期続けて7千億円超の最終赤字を計上する主因となった。

このため同社は26年3月末で生産を終了する方針を固めており、在庫を販売した後はプラズマ事業から完全に撤退することになる。これに伴い、主に製造現場に携わるPPDのプロパー社員については、11月にも希望退職の募集を始めることになった。希望退職に応じない社員は、従事する事業がなくなることで3月末で雇用契約が終了し、全員が退職する。


縮小路線まっしぐらのパナソニックですが、この様なリストラは、正に松下幸之助の理念の正反対を行くものです。

赤字部門を切り捨てるのは、場合によっては仕方ないのでしょうが、それに代わる何かが有るのでしょうか?

どうも最近のパナソニックの話を聞いていると、気がつけば何も残っていなかった…技術者は軒並み中韓に取られた…」にしかならないと思います。

私は、個人的に好きで使っていますが、既に斜陽産業と言われて久しいカメラなんかに、しかも更に利益の確保が難しいデジタルになってから本格参入してきたり、正直最近のパナソニックは、不安要素が満載ですね…。


57 ポンティアック・チーフテン

ポンティアック
10 /30 2013
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写真は、57年型ポンティアックです。

よく50年代のGMは、ブランド別に個性が確立していた…と、後の金太郎飴状態と比較して、言われます。

そして顧客も、ポンティアックといえば、シボレーの上…と、そして別の車と、本当に思っていました。

現在の目から見たら、如何でしょう?

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コチラが57年型シボレーですが、私の目には、どう見てもシボレーの兄弟車にしか見えません。
正直、グリルとサイドモール、エンブレムといった光り物以外、大して変わりません。

実際には、シボレーより大きいエンジンが搭載されていたり、シボレーには直6エンジンが残っていたのに対して、ポンティアックはV8エンジンのみと、若干上級嗜好であることを示しています。

そして、見た目では気付きませんが、ホイールベースは、驚く事に17センチ程拡大されていたりします。

こうやって見ると、シボレーと大して変わらない様に見えますし、実際に基本は同じなのでしょうが、比べてみると、やはりポンティアックの方が立派に見えるのです。

この頃から既に金太郎飴路線は始まっていた訳ですが、その仕上げの見事さ故か、顧客から批判が出なかったのでしょう。

尚、当時のポンティアックは、どちらかというと上品路線と言われ、より高価格なオールズモビルの方が、スポーティーな味付けとなっていました。

それが60年代に入ると、あのジョン・デローリアンの元、スポーティー路線に走り、成功を収めましたが、その裏で、立場を奪われたオールズモビルが、次第に衰退していく一因にもなりました。

そして90年代、オールズモビルは、再びスポーティー路線に返り咲こうとしたものの、またもや完全にポンティアックとバッティングしてしまい、2004年を最後にブランド閉鎖になりました。

その後、ポンティアックも、GM破綻の際にリストラ対象となり、2010年に閉鎖されています。

2013 ビュイック・リビエラ コンセプト

カーデザイン スタジオ
10 /28 2013
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ビュイック・リビエラというと、特に60年代後半、オールズモビル・トロナードの兄弟車として、その流麗なスタイルで一世風靡しましたが、70年代に入ると、何の変哲も無いクーペになり、人気は尻すぼみになりました。

95年に発売された最終型は、先代に比べると、ダイナミックなスタイルになったものの・・・正直ニッサン・Jフェリーを肥満させた様なスタイルが、美しいとは思えず、また、大型クーペの衰退期にも当たり、大した販売実績は残せませんでした。

生産中止から14年、今日ビュイックというと、オーナーの高齢化が止まらず、ポンティアックの廃止によって、辛うじて生き延びているというのが実情です。

アメリカのジョークで、こんなのがあります。

ビュイックのオーナーには、大きく分けて二通りある。
1.悪徳セールスマンに騙された高齢者。
2.お爺ちゃんからタダで貰った若者....

とは言っても、やはり何とかしたいとは思っている様です。
写真のコンセプトカーは、細かい仕上げのレベルを見ても、初期のモックアップに当たります。

ビュイックにとって、やはりリビエラという名前は、特別な意味が有るのでしょう。何処かアストン・マーティンの様な雰囲気を感じますが・・・。

それにしても、何故最近のアメリカは、ダラーっと垂れ下がったグリルが好きなのでしょうか?ジーンズを半分脱げかかった状態で履いているのをカッコいいと思う世代がデザインしたんでしょうか?

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コチラは、グリルの位置を、フォトショップで修正しておきました。

やはり、本来有るべき位置に有るというのは、良いものです。そうでないと見る者の視点が無駄に泳いでしまい、結果として曖昧な印象しか残らないのです。

過去10年、ビュイックは、由緒有る名前を軒並みリストラし、馴染みの無い名前で顧客を混乱させ、更にそれらが全く魅力の無い車ときて、急速な顧客離れを起こしました。

コレは、まだ初期の段階で、今後、どの様になっていくのかは判りませんが、リビエラという由緒正しい名前を使っていること、そして、昨今の目を覆わんばかりのビュイックの中で、比較的好印象の持てるものだと思います。

あとは、現状の近代的な無機質な雰囲気から、もう少しビュイックならではのシックな雰囲気を、上手く加味出来れば、アメリカ製アストン・マーティンの様な雰囲気になると思います。


AMC ペーサー

独立系メーカー
10 /16 2013
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ペーサーは1975年に登場した、コンパクトカーでした。
ナッシュとハドソンの合併で誕生したAMCは、一貫してコンパクトな車を作っていましたが、70年代に入ると、日本車の影響も出始め、経営不振が続いていました。

とにかくユニークなスタイルで有名な車ですが、全長が4.1mと大変に短い割りに、全幅が1.79mと広く、それも独特なスタイルの原因となっています。

2ドアながら、助手席のドアを長くする事で、後部座席へのアクセス性を良くしています。

驚く事に、当初、ロータリーエンジンでFFを計画していたといいます。

ところが、オイルショックの影響をモロに受けた時代でもあり、結局コストダウンもあり、FFはお蔵入りとなり、当時は当たり前のFRのリジットアクスルに落ち着き、エンジンも、使い古された直6になりました。

フロント過重の軽いロータリーにFFって、正直実用的とは思えないのですが・・・。

当初は、それなりに売れた車で、今でも70年代を代表する車の一つに数えられると思うのですが、それでもAMCの経営不振を立て直すだけの力は無く、AMCはルノーの傘下に入り、そしてペーサーは生産中止になりました。

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フロントマスクもユニークですが、何と言っても、この独特なリアこそが、有名なところです。非常にグラスエリアを大きく撮ったのが特徴で、金魚鉢というあだ名もありました。

もう少し、リアをスリムにすれば、小型スポーツカーにもなりそうです。

どちらかと言えば、名車というより迷車の部類に入ると思うのですが、それでも当時のデザイナー、中々の力量だと思います。

製鉄の街 インディアナ州ゲーリー

アメリカ情勢
10 /14 2013
製鉄と共に豊かな頃のゲーリー

アメリカのインディアナ州ゲーリーといえば、マイケル・ジャクソン生誕の地…日本語でゲーリーを検索すると、その事しか出てこないと言っても過言ではありません。

アメリカの五大湖周辺は、製鉄の他、自動車産業など、古くから重工業が栄えてきました。

アメリカ中西部に位置する五大湖は、全てが運河で接続されており、大型船舶での往来が可能であること、1832年に開通したエリー運河によってニューヨークまで船舶の往来が可能であり、それによって比較的早い時期から開拓が進んだのです。

西のメサビの鉄、東のアパラチア山脈の豊富な石炭、広大な平野に水資源、そして水運…重工業には持って来いの土地だったのです。

1901年、鉄鋼王と呼ばれたアンドリュー・カーネギーが、会社をJPモルガンに売却し、そこに世界最大の製鉄会社「USスチール」が誕生しました。

20世紀はアメリカの世紀・・・正にその幕開けに相応しい出来事でした。

そのUSスチールの最新鋭の製鉄所が建設されたのが、インディアナ州のミシガン湖畔で、1906年、製鉄所と共に誕生した街が、USスチールの社長の名から、ゲーリーと名付けられました。

シカゴから車で1時間半という場所で、製鉄と共に、大いに繁栄した街でした。

ところが、製鉄という産業は、国の成長期の産業といえるもので、安定成長に入ると、自ずと縮小傾向に入る運命にあるのです。
60年代に入ると、製鉄の縮小と共に、大量の失業者を出し、治安が悪化して行きました。同時に整備された高速道路と共に、中産階級以上は、街を離れ、貧困層が街に残る・・・という典型的なアメリカ型荒廃が起こり、全人口の85パーセントが黒人、そして、常に全米ワースト10に入る程、極度に治安が悪化したのです。



デトロイトと同様、これだけ治安が悪いと、新たな企業を誘致する訳にも行かず、かといって観光資源も無く、荒廃にはなんら打つ手立てが無く、今日に至っています。

私が初めてゲーリーを訪れたのは、80年代後半でしたが、ゴーストタウンの様な薄汚れた街、そして所在無げに彷徨う黒人の姿に戦慄を覚えたものでした。
多くの古典的な建物が、かつての栄光を偲ばせる様でもありました。

これは、アメリカという国の一見華やかそうな表向きとは全く逆の現実を見せられた思いがしたものです。

私が現在でも、アメリカの観光に行くと、観光客の行かない治安の悪い街にも足を伸ばすのは、その辺りも含めて本当の意味での観光だと思うからなのです。

2005年に北米を旅行した時、ゲーリーにも足を伸ばしましたが、インディアナ州グリフィスを過ぎると、あとはゲーリーに近付くにつれ、段々と街が荒廃していくのは、昔と同じでした。
ダウンタウンには、かつて無かった様な大型ショッピングモールが出来ていましたが、そんなに遅い時間でも無いのに、完全に閉まっており、他にも営業している店舗は皆無で、街に人影は全く無く、やはり、この街の現状を垣間見た思いがしました。

改めてグリフィスに帰ってくると、多くの店が当たり前の様に営業しており、街はアチコチにハロウィーンの色鮮やかな飾り付け・・・正に全くの別世界の様でした。

国が安定成長に入ると製鉄が衰退する・・・と言いましたが、これは日本でも起きたことです。

80年代、他の業種に先駆けて、多くのリストラを行ったものの、アメリカの様な無慈悲なレイオフは行わす、かつての製鉄所の敷地が再開発されたり、製鉄に関しては、単価の安いものから、単価の高いものに主軸を置き、量では中国や韓国に負けながら、技術レベルは常に最高のものを持っており、比較的上手く転換して行った様に思います。

やはりアメリカのソレは、労働者は労働者でしか無く、即ち奴隷でしか無い…この様なスタンス故のものだと思います。
量で日本の負け、技術で日本に負け、価格で日本の負け…30年以上不振に喘ぐ、アメリカ・ビッグ3と似ている様な気がします。

治安の悪い地域に行けば、自ずと、その街の真実が見えてくる・・・そんな気がします。

まあ、余りその様な旅行は、お勧め出来ませんが…。

フォード・ファルコン

フォード
10 /12 2013
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フォード・ファルコンは、1960年に登場したコンパクトカーでした。
50年代に巨大化、テールフィンと、豪華路線に明け暮れたビッグ3ですが、60年代に入ると、コンパクトカーにも手を伸ばしたのです。

全長4.6m弱と、フルサイズカーと比べると、1mも短く、大変にコンパクトなものでした。

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この様な車が登場した背景には、当時、アメリカの一般家庭で2台目の車を所有するのた一般的になりつつあったこと、そして、その様な層は、大抵一台目よりもコンパクトな車を購入しており、フォルクスワーゲンの様な輸入車が選ばれているという事実がありました。

正直地味で何の変哲も無い車なのですが、何と言っても、後に、あの初代マスタング述ベースになったのを、忘れる訳にいきません。

先ほど、2台目の車として、よりコンパクトな車が求められていると言いましたが、もう一つ、戦後アメリカに上陸した、ヨーロッパ製のコンパクトなスポーツカーに対する回答でもあったのです。

もう一つ、特筆すべきは、この車が中南米、そしてオーストラリアで生産されたことで、アメリカ生産中止になった後も、オーストラリアでは独自の進化を遂げ、現在に至るまで、フォード・ファルコンというと、同社のフラッグシップとして人気を博してきました。

本国アメリカでは、自体大変地味で、人気もイマイチだったものが、後にマスタングのベースとなり、大ヒット。
本来、コンパクトカーであったソレが、オーストラリアでは、フラッグシップに成長し、今日までの長寿を誇っています。

元が地味な車だけに、何とも数奇な運命を辿った車…という印象があります。

トヨタの責任なし…米「カムリ」急加速訴訟評決

ニュース
10 /12 2013
【ニューヨーク=越前谷知子】米カリフォルニア州でトヨタ自動車の「カムリ」の急加速が原因で当時66歳の女性が死亡したとして、遺族が損害賠償を求めていた訴訟で、カリフォルニア州の裁判所の陪審団は10日、トヨタの責任はなかったとする評決を下した。

 陪審団は、女性が運転していた2006年型のカムリに、事故原因となる欠陥はなかったと判断。女性がブレーキをかけようとして衝突したのは、トヨタがアクセルとブレーキを同時に踏んだ際にブレーキを優先させるシステムを装備していなかったためとの原告側の主張を退けた。
 トヨタは09年から10年に急加速に関する苦情が頻発したことなどを受け、大規模なリコールを実施。米連邦裁判所やカリフォルニア州の裁判所に数多くの訴訟が起こされている。トヨタ側は「この評決がトヨタ車が安全であることを示すと確信する」とコメントしている。
(2013年10月11日13時27分  読売新聞)

一応トヨタの責任無し・・・という結論が出ました。

この件は、アメリカ政府のGM救済が目的だった…なんていう噂もありますが、カナダの有力紙Lemonade誌では、2003-4年頃から、既に指摘していた問題なので、捏造とは思えません。

騒ぎになった頃に、捏造が多発したのは事実だと思いますが・・・。

従来、アクセルは、ケーブルを介してペダルに繋がっていましたが、それを電気的に処理する、所謂「スロットルバイワイヤー」が登場した時期に一致します。

運転操作のミスだったと言うにしても、オートマのブレーキとアクセルペダルの形状は、大きさも形も全く異なるので、イマイチ納得が行きません。

急加速とは言えないものの、急にアイドルリングが2000回転を超える位に上昇する…なんていう話しも、アチコチで聞きますし、トヨタは実際ソレすら対応出来ていません。

5.7リッターのエンジンで2000回転って、それでも結構なスピードになるんですが・・・。

法的に問題ないという判断が出たとはいえ、私としては、納得し難い判決です。

日産のNY「イエローキャブ」、銀座で初公開

アメリカ情勢
10 /09 2013
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「イエローキャブ」の愛称で知られる米ニューヨーク市のタクシーとして今月末から稼働する日産自動車のミニバン「NV200」が9日、東京の松屋銀座で初公開された。
 約1万3000台あるイエローキャブが、今月末から順次、NV200に切り替わる。メキシコで生産されたNV200は、景色を楽しめるよう屋根がガラス製になっていて、座席にも携帯電話の充電用電源が備えられるなど、様々な工夫が施されている。
 NV200は、同店1階の特設広場に15日まで設置。同店で始まったニューヨークのファッションブランドや食品を紹介する催事に合わせて公開された。
(2013年10月9日11時15分  読売新聞)


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コレらがニッサンNV200だったら…考えたくもないです…


カルロス・ゴーン以降のニッサンデザインは、最悪ですが、こんな醜悪極まりない物が、ニューヨークの街を走り回るとは・・・。

実車は見た事ありませんが、こんな無意味に背の高い出来損ないのミニバン…しかもメキシコ製じゃ、大した事無い気がします。

かつて、ニューヨークの街角で撮影する時、クラウン・ビクトリアのタクシーが入ってきたら、大歓迎でしたが、コレだと、写真に入らない様に気をつけないといけません。

今の時代、年配者や障害者にも優しいことが求められますが、こんな背の高いモノに乗り込むのは、年配者には大変でしょう。

しかもメキシコ製でFF・・・正直私は、ニッサンというだけで、タクシーに使うのに、かなり疑問です。日本がトヨタばかりになったのは、正直トヨタの方が耐久性が上だったからなのです。

ニッサンの、しかもバンベースのでっち上げ車がニューヨークのタクシー・・・世も末です。同じ日本車でも、トヨタ・シエナの方が、まだ無難なスタイルですし、バンクーバーでも実績があります。

F1韓国GP、過去最低の入場者数

ニュース
10 /08 2013
F1韓国GPの主催者は、2013年の入場者数を発表。3日間の合計入場者数は過去最低だった。

F1ドライバーも観客の少なさへの不満を口にするF1韓国GP。主催者の発表によると、韓国インターナショナルサーキットの3日間の合計入場者は15万8,163人。昨年よりも5,989人減少した。

F1韓国GPは、開催初年度の2010年には約16万3,000人、2011年には約16万人を動員していたが、韓国でのF1人気が低迷が浮き彫りとなる数値となった。

ちなみに、鈴鹿サーキットで開催されたF1日本GPは3日間で20万8,000人を動員している。

F1韓国GPは、2014年の暫定F1カレンダーに掲載されているが、今年が最後のグランプリになるとの見方が強い。


韓国GPが始まったのは、2010年、前政権が徹底的に国際化を推し進めた時代に当たります。

とにかく韓国という国を世界にアピールする為、様々な事をやってきたのですが、やはりF1の様なモータースポーツは、難しかった様です。

今回のレースは、消火活動の不手際も指摘されていますし、場所も物凄い僻地で、宿舎はラブホテルしか無い、英語も通じない…という惨状だったといいます。

安全性あってのF1、外国からの観客を呼べるだけの施設が整ってこそのF1です。只サーキットを作っただけでは、土台無理な話しなのです。
まあ、この辺りの問題は、開催前に十分分かっていたと思うのですが、それでも開催した主催者側にも、問題はあります。

americancars4ever

アメ車のブログとして開設して13年目、車以外にも様々な身の回りの話題を取り扱っています。