シーナ&ザ・ロケッツにとって特別な曲といえばコレ・・・
4人組ロックバンド「シーナ&ザ・ロケッツ」のボーカル、シーナさん=本名・鮎川悦子=が14日朝、子宮頸がんのため、入院先の都内の病院で亡くなった。61歳だった。夫で同バンドのギタリストの鮎川誠がデイリースポーツの取材に応じ、「35年一緒に(シナロケを)やれて、幸せでした。ファンの方にも幸せでした、と伝えてください」と悲しみをこらえ、気丈に話した。
シーナは昨年7月、急病でライブ出演をとりやめたが、鮎川によると、この時、末期の子宮頸がんと診断されていたという。8月にステージ復帰。9月13日に日比谷野音で行われたシナロケの35周年ライブにも出演したが、この時、体調が悪いことを伏せて、ステージに立っていたという。
その後、体調が悪化し、11月下旬に入院。正月は自宅に戻り、家族で過ごすことができたが、今年1月中旬に容態が急変。再び入院。この日、家族が病室に集まり、手を握りながらみまもったが、パソコンでシナロケの35年分の音楽を聴きながら、息を引き取ったという。
シナロケのパートナーとして、プライベートでは仲の良いおしどり夫婦としてしられた二人。鮎川は、本紙の取材にいつもと変わらぬ穏やかな口調で応じ、「歌うことが好きで、病気治ったら何したい?って聞かれたら『歌いたい』って。(最後にそれが)かなわんかったから、歌聞きながら…。素晴らしい歌手でした。一緒に35年過ごせて、幸せでした。ファンの皆さんから愛されて、とても幸せやったと思います。ハートが大好きだったから、バレンタインが命日(に)なって…」と語った。
シーナさんは1978年、サンハウスのギタリストだった夫の鮎川誠とSHEENA&THE ROKKETSを結成。シングル「涙のハイウェイ」でデビューした。79年、細野晴臣プロデュースのシングル「ユー・メイ・ドリーム」がヒット。福岡県北九州市出身。同じく福岡出身の鮎川の強烈な個性、九州弁とともにシナロケは日本を代表するロックバンドとなった。
シーナさんはミニスカートと網タイツをトレードマークに、圧倒的な歌声とカリスマ性でファンを魅了し、日本を代表する女性ロックボーカリストとなった。“ロックンロールハート”を体現し続けたシーナさん。2009年、著書「You May Dream」を出版。鮎川との間に双子を含め3姉妹がいる。
80年頃、YMOのファンであった私がシーナ&ザ・ロケッツというバンドを最初に知ったのは、YMOファミリーというカセットのみの販売のベストアルバムからでした。
YMOの楽曲の他にも、坂本龍一のソロ曲、そして、同じくYMOにかかわりのあったシーナ&ザ・ロケッツの曲も何曲か入っていました。
リーダーで夫の鮎川誠氏は、YMOのツアーでギターの演奏をしており、あの伝説とも言える武道館コンサートにも参加しており、所謂YMOファミリーの一員でもあったのです。
CD世代の方には想像できないかも知れませんが、当時はレコードやカセットを買う場合、前もって試聴する様なことは出来ず、当然YouTubeで・・・なんて訳にもいきません。
1~2曲知っている曲が入っているというだけのアルバムに2800円なりの大金を払ったのは、今から考えると博打のようなものです。
当然、「何だコレ?」ということも多々あるのですが、しばらく聴くうちに、最初に知っていた曲よりも、むしろアルバム曲の方にはまる・・・ということも、結構ありました。
私にとって、シーナ&ザ・ロケッツとは、その様な存在のバンドでした。
因みに、このYMOファミリーは、後にCD化もされる事無く、今では幻のアルバムと言われている様で、ネット上にも情報はありません。
一度、姫路ポップフェスティバルに来たことがありますが、残念ながら、その時はシーナさんは欠席されており、ザ・ロケッツとして演奏しましたが、鮎川誠氏の圧倒的な存在感に驚いたものでした。
その日は、他にも4~5のグループが来ており、その中で圧倒的に印象に残ったのが、ザ・ロケッツで、驚く事に、あのハウンドドッグも居たのですが、ffヒット前の同バンドの印象は、「喧しい」の一言だけでした。
そんな訳で、シーナ&ザ・ロケッツとしてはライブで聴いた事は無いのですが、その凄さは容易に想像出来ます。
80年代初頭に活躍された方が既に60代、そして既に鬼籍に入られた人も何人も居ます。
久々に名前を聞いたら訃報・・・何とも寂しいものですね・・・。