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ホンダのCBR250RR、新型が公開される。 バイク野郎は震えて待て!

ホンダ
07 /31 2016

RRが現代によみがえる!

ホンダが1990年に発売を開始したスポーツバイク「CBR250RR」。小排気量ながら2万回転近くまで吹け上がるエンジンやガルアームなど豪華な車体装備で、当時のバイク小僧の憧れの的となったバイクでした。

そして今、そのCBR250RRが新モデルとして生まれ変わろうとします! ホンダ・インドネシアが公開した動画(https://youtu.be/bSLpEoGMKXs)。バイク好きならぜひ見て欲しい!

まごうことなきスポーツバイクのシルエットに、浮かび上がる「250RR」の文字。ああ、とうとうニダボこと250RRが復活するんだな…という実感が湧いてきます。



今回お披露目されたバイクは、ホンダが東京モーターショー 2015で公開したコンセプトモデルとして発表されました。

新型CBR250RRは、8バルブ2気筒の250cc DOHCパラツインエンジンを搭載し、6速のミッション、スロットル・バイ・ワイヤ(TbW)システムを採用。トラスフレーム、アルミのスウィングアーム、USDサスペンションも装備。

今年中に東南アジア諸国で発売開始。日本でも発売が計画されています。そして来年から世界での発売と、今年後半は目が離せません。最近はカワサキのNinja250など小排気量のスポーツバイクが流行りですが、そこにホンダが殴りこみをかけてきそうな様相ですよ!

何処が現在に蘇るなんでしょうか?

同じなのは精々名前くらいでしょう。

>>8バルブ2気筒の250cc DOHCパラツインエンジン...

前作は、DOHC16バルブ4気筒で、しかもカムギアトレインでしたが・・・。

例えは古いですが、ヨンフォアのファンが、ホークⅡに対して感じたものと、似ている様な気がします。

確かに250の4気筒というのは、決して速いものではありませんでした。しかし、実用的な速度で、超高回転を維持して走る快感は、他では得られないものでした。

250なら、シングルかツインの方が実質的には速い…これは確かですが、バイクなんてものは、所詮は趣味の乗り物。速い以外の魅力だってあるのです。

オマケにこのデザイン…明らかに東南アジア向けの「スーパースポーツ」を、片手間に日本に持ってきた…ただそれだけの製品ですね。

2015年のモーターショーに出展されていたそうですが、実際に現地に行った私ですら全く気が付きませんでした。

何か物凄く強引な記事に思えますね。

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トライアンフ・ボンネビルT140

海外メーカー
07 /25 2016
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60年代、市販車最速と言われ、人気を博したトライアンフ・ボンネビルですが、1969年にホンダCB750が発売されると、その地位を脅かされる様になりました。

実はトライアンフは、60年代初頭より、ボンネビルを超える次期モデルの開発に着手しており、65年頃には、新型の並列3気筒モデルは、かなりの完成度を見せていたにも関わらず、会社の都合から、その開発は一時棚上げされてしまい、結局市販されたのは、68年になってからでした。

その新型トライアンフ・トライデントの最大の悲劇は、翌年、あのホンダCB750が発売された事に尽きます。

もう数年早く発売出来て、CB750のモデルチェンジに合わせて、第二世代目にバトンタッチできていれば、或いは歴史は違っていたのかも知れません。

軽量な車体と操縦性を持ったトライデントは、レースでの活躍とは裏腹に、並列4気筒、ディスクブレーキ、セルスターター等、目新しさの固まりのホンダに比べ、OHV3気筒とセールスポイントに欠け、しかも割高な価格も手伝って、市販車としては不振を極めました。

そんな中で、トライアンフが行ったのは、従来のボンネビルの改良?でした。

先ずは71年、フレームが一新されています。フレーム内にオイルタンクを内蔵したこの新型フレームは、ソレまでのトライアンフの精悍なプロポーションを、完膚なきまでに破壊しました。

更に73年には、排気量を750ccまでアップしています。
これは、日本製のナナハンに対抗したものなのでしょうが・・・。

トライアンフといえば、軽快な吹け上がりが売りのバイクであったものの、排気量の拡大は、その軽快さをスポイルし、ユッタリ走るバイクへと変貌したのです。

元々500ccがベースであったボンネビルのエンジンですが、それを650、最終的には750へと拡大していった訳ですが、同時に強度不足を心配して、圧縮比も下げられており、馬力でも650を下回っています。

写真のソレは、前後ディスクブレーキが装着されているので、76年以降のモデルでしょう。

このディスクブレーキも、余り良い評価は無く、更に80年にはセルスターターが付きますが、コレも悪名高いモノとして有名です。

70年代のトライアンフは、ブリティッシュ・レイランドと同様、合併による経営の混乱もあり、必要な製品を、必要な時期に投入する力は既に無く、60年代、アレだけ人気を得たボンネビルを改悪し続けました。

そして、1983年には倒産し、一旦姿を消すことになりました。

現在バンクーバーで見かけるバイクで、特に目に付くのが、新型のトライアンフ・ボンネビルです。ここ数年で急激に数が増えた様で、コチラでもレトロスタイルが人気を得る様になったのでしょう。

ソレに比べると、旧ボンネビルを目にする事は非常に稀で、それは、高速走行で120キロ以上でのクルージングを考えると、やはりムリがある…という所なのかも知れません。

この750は、正直余り良い印象が無いのですが、現行トライアンフの巨大さからすると、むしろ良い雰囲気に見えますね・・・。

<大橋巨泉さん死去>テレビ育て…硬軟自在、「反骨」示す

ニュース
07 /20 2016

 テレビ文化を育てた巨星が落ちた。12日、82歳で亡くなった大橋巨泉さんは、番組司会などで活躍。豊富な語彙(ごい)とユーモアでスタジオを盛り上げ、社会を斬り、昭和を代表するテレビマン、文化人として駆け抜けた。

 ◇評伝

 ♪シャバダバシャバダバ--。

 軽快な女声スキャットで始まるテレビ界初の深夜ワイドショー「11PM」(日本テレビ系)は衝撃的だった。それまでテレビではタブー視されていたマー ジャン、競馬といったギャンブル系の遊びや、釣り、ゴルフ、ボウリングなどのレジャーが次々登場した。カバーガールがにっこりほほ笑み、当時15歳の由美 かおるが歌って踊る清潔なお色気路線も魅力の番組だった。

 「俗悪番組」とたたかれながらも1965年11月から90年3月まで25年続き、そのうち20年間、司会を務め番組の顔となったのが大橋巨泉さんだった。

 当初は構成作家として参加した。「夜でなければできないものを」と相談を受けて作ったのがマージャンのコーナー。「非難ごうごうで1~2回で終わると 思っていたら、もっとやろうとなって、お前が司会もやれと。裏文化、サブカルチャーを初めてマスメディアに乗せた存在価値があったと思います」。99年秋 に放送された一晩だけの復活特番の直前、あの笑いを含んだ陽気な声で誇らしげに語った。

 「お色気番組の元祖」と言われがちだが、巨泉さんの真骨頂は、落首や狂歌のように、軟派番組の中に政治や社会への批判を突きつける硬派企画を挟み込んだ反骨精神だ。

 従軍慰安婦や公害、返還前の沖縄の現実といった硬派ネタから、ストリップ、UFO、超能力、アングラ芝居などの軟派ネタまで取り上げた。「僕は、日ごろ新聞の社説を読まない人に、政治や経済の問題に興味を持ってもらおうとシリーズを続けたんですよ」とも明かした。

 もう一つ、テレビ文化を豊かにした功績がある。「クイズダービー」「世界まるごとHOWマッチ」(ともにTBS系)を、軽妙洒脱(しゃだつ)なスタジオトークを生かして、家族で楽しめる良質な娯楽番組に育てたことだ。

 17年前のインタビューの最後に、こう話していた。「当時のイレブンでは、人が取り上げていないもの、他でやっていないものを次々とやった。今のテレビ の堕落の原因は、そこが欠けていることにあると思いますよ」。愛するテレビへの遺言となった。【元毎日新聞編集委員・網谷隆司郎】




私たちの世代にとって、大橋巨泉といえば、物心付いた頃から、常にテレビでお馴染みの顔でした。

ゲバゲバ90分、お笑い頭の体操、クイズダービー、11PM、世界まるごとハウマッチ・・・全てに共通しているのが、お笑いもあり、シリアスあり、そして、大変に知的な印象のあることでした。

90年代、一足早くセミリタイア宣言と共にテレビから姿を消し、活動の場を海外に移されました。70年代からカナダのバンクーバーでOKギフトショップを始めており、当初はテレビで稼いだ分で赤字の補填をしていたところ、80年代後半以降、日本人の海外旅行が一般的になると、経営が安定し、ソレもセミリタイ ア宣言の一因であったようです。

当時の裏話として、大橋巨泉がバンクーバーでどんなビジネスをするか模索していた当時、日本食レストランという案も有ったそうですが、当時、「バンクーバーには、既に日本食レストランが3軒も!有るから止めた方が良い」と言われたそうです。
現在からは考えられない事ですね…。

海外に関する薀蓄は、私も大いに影響を受け、そして現在、海外で生活しています。
反面、海外に定住している者の目からすると、良い時期に短期間しかいない氏が、本当に海外生活というものを知っているのか?という意味で、疑問符が付く・・・というのも、また正直な所でしたが・・・。

しかし、まだ誰もが海外に行ける時代ではなかった頃、外国の文化を日本に紹介したのは、非常に画期的なことでしたし、その辺りでは、今となっては感謝する他ありません。

翻って現在のテレビといえば・・・規制に次ぐ規制で牙を抜かれ、何処を観ても同じ様なメンバーが、同じ様な事ばかりやっています。何の意味も無い、大勢のひな壇タレント達、芸も無い芸人、面白くも無いお笑いタレントの司会、ネットの情報の受け売り程度の内容・・・少なくとも大橋巨泉を当たり前に観ていた私たちにとって、物足りないの は当然なのかも知れません。

また一つ、確実に昭和が遠のきました。

謹んでご冥福を祈ります!

カナダ・オンタリオ州の自動車保険事情

カナダ情勢
07 /17 2016
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 - こんなのに乗るにも、多額の保険料を納める必要がありあす・・・。

カナダの免許制度を始め、車に関する制度の多くは、州によって異なります。例えば免許でも、3ヶ月以上別の週に滞在する場合、書き換えの必要が生じてきます。

そんな具合で、保険制度も、州によって異なっているのです。

バンクーバーのあるBC州の保険制度の酷さに関しては、既に何度もこのブログでも取り上げています。

政府が一元管理しているので、競争原理が働かず、しかもお役所体質で全てがドンブリ勘定なので、修理業者はボッタクリ放題、顧客もチョットした怪我でも大怪我のフリをしてシステムを悪用して大金を手にし、保険会社はソレに対応する為に、更に非常に高額な保険料を設定している…といった悪循環に陥っているのです。

その上、事故相手も自分も同じ保険会社ということは、事実を突き止めようという作用が無く、適当に両方が悪いことにして、両方の保険料を値上げされるという事体が多く発生しています。

例えば私は、現在最高割引を取得していますが、それで例えば100ドルで買ったヒュンダイ・ポニーの保険に加入するとしても、全く最低限の保険でも、年間900ドルにはなりますし、もう少しマトモなものに入ろうとしたら、年間1300ドル位にもなります。

お隣アルバータ州の場合、自動車保険は民間で賄われておし、バンクーバーに比べてかなり割安になっています。

では、カナダの首都オタワ、最大の都市のトロントのあるオンタリオ州はどうなのでしょうか?

ココでは、2010年より、自動車保険が民営化されています。
だったら、保険料が大幅に下がったのでしょうか?

実際は、その逆でした!

現在オンタリオ州は、カナダでも最も高い保険料が設定されているのです。
本来、民営化されて競争原理が働けば、価格競争が起きて、価格が下がるのが普通なのですが、オンタリオ州の場合、ソレが逆に、値上げ競争に走ってしまったのです!

官営のメリットとしては、ドンブリ勘定故に、無駄に気前のいいことがあるのですが、民営になれば、当然ソレは無くなります。

しかし、保険代だけはうなぎ上りで、年間3000ドルは当たり前なんていう世界です。

コレは、ペレストロイカ後のソ連を思わせます。
資本主義というものを全く理解していないで共産主義から脱皮しようとしたところ、物価だけ暴騰し、依然として物不足は解消されなかった…という奴です。
秩序の無い自由化は、共産主義にも劣るのです!

カナダ人は、自動車保険に関して、正に土人レベルです。殆どの人がまともな自動車保険というものを経験したことが無いので、バンクーバーのソレにも甘んじて、しかも、オンタリオ州の様な値上げ競争が起こってしまったりするのです。
そして、オンタリオ州の失敗から、BC州でも、現状止む無しといった風潮なのです。

現在オンタリオ州では、若者が車を持つ事は、もはや絶望的です。それこそ年間5000ドルという世界です。

オンタリオ州といえば、カナダの自動車産業の中心でもあるにも関わらず、バンクーバーよりも更に馬鹿げたシステムになってしまい、問題になっています。
既にダウンタウンに出来ている新しいアパートには、駐車場すら用意されていない場所が多いということです。

バンクーバー市でも、市内から車を追い出し、バス、自転車、徒歩の環境を整えることが、人に優しい未来の街づくりだ・・・なんていう非現実的なことを言っていますが、雨の多いバンクーバーで車が無いというのは、やはり不便な事です。

こうやって、益々現地の人が近寄らないダウンタウンが出来てしまい、車を持てるのは裕福層のみとなり、格差社会にもなっています。
この事が、自国の自動車産業を衰退させているという事実に、果たしてどれだけの人が気付いているのでしょうか?

コレに比べると、日本の車の維持費は、随分と安く感じられますね。
車検が高いなんて言ったところで、2年分の自賠責保険やメンテナンス費用まで入っているんですから。

コチラでは、その高額な保険にプラス、年間数百ドルものメンテナンスが加味されます。

1973 キャデラック・セダン・ド・ヴィル

キャデラック
07 /15 2016
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キャデラック・セダン・ド・ヴィルは、キャデラックの中ではリーズナブルな価格帯に属するもので、同時に、最量販車種でもありました。

写真は73年式のセダン・ド・ヴィルです。

この年の特徴は、5マイルバンパーの装着が始まった事で、同時に、ヘッドライト周辺のクロームの面積が増大しました。

その影響からか、前年までに比べると、随分とフォーマルな雰囲気に見えるのですが、やはり、次期モデルと比べると、大変にお洒落でエレガントな雰囲気が漂っています。

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エンジンは7.7リッターと8.2リッターのV8という、途轍もない巨大なものでした。

同年、ド・ヴィル系だけで販売台数が216,243にも達していました。生産はデトロイトで行われ、しかも、これだけの販売台数…車というモノは、高級車ほど利益幅が大きく、しかも常に安定して売れていたことからも、キャデラックはGMにとって、正に金の卵であったのです。

それにしても、キャデラックの1モデルだけで年間20万台も売れるという、実に驚異的なマーケットですね…。

デトロイトで、コレの生産が無くなった…それだけでも、市にとって経済的な打撃は大きかったことでしょう。

全長5,786 mm、全幅2,027 mm、重量2,200~2,400kgと、正に途轍もないサイズで、しかも極端に品質が低下する前の、正にキャデラック最後の黄金時代と言えるものでした。

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翌年には、驚く事に、エアバッグがオプションとして設定されています。しかも今で言うデュアルエアバッグでした。
しかし、販売台数は限られており、「エアバッグに車を付けて売っている」と言われる始末で、76年モデルを最後に一旦姿を消しています。

この世代は、76年まで続きますが、後は段々と地味なスタイルになるばかりでした。

現在フルサイズカーというと、ノーマルで、年配者が昔から乗っているか、一風変わった連中が改造して乗っているのが殆どです。

この車は、ホイールもノーマルですが・・・まさか、この車を当時から乗っているオーナーが要るとも余り思えませんし、今となっては、こんなにきれいな車は貴重ですね。

尚、売りに出ているのですが、7500ドルの値札が付いていました。コレを安いと思うかどうかは…。

ヤマハXZ400/ 550

ヤマハ
07 /10 2016
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80年代初のヤマハは、4ストロークの位置付けに相当迷いがあった様ですが、やはり2ストローク専業であったことを考えると、4ストロークは、ツアラー的な位置付けであったのは、当時の関係者の話しからも間違いありません。

そして80年代初頭というと、所謂HY戦争と言われた中で、ホンダに対して全てのクラスにライバルを投入する…という意気込みがありました。

このバイクの水冷V型2気筒、シャフトドライブ…という出で立ちは、ホンダGL500/400への対抗馬として開発されたのでしょうか?

ホンダのOHVに対して、コチラはDOHC、ホンダの横置きに対して、コチラは一般的な縦置きVツインで、ホンダの80度に対して70度…ある意味、何から何までホンダを意識した上で変化を与えた…という風に、私には見えてしまいます。

Vツインというのは、90度で理論的に一時振動がゼロになりますが、それでは余りにスムーズ過ぎる…という事で、若干鼓動を残す為に生まれたのが、ホンダの80度Vツインでした。

70度というのは、それよりも更に鼓動感を狙った…という事なのでしょうか?

馬力もGL500/400の50/40馬力に対して、XZ550/400では、64/45馬力と、より高出力になっています。

フレームは、ホンダのダイヤモンドフレームに対して、コチラはダイヤモンドフレームと、ダブルクレードルフレームの中間の様な、摩訶不思議な格好をしていました。

200キロ近い車重もといい、ヨーロピアンツアラーといった出で立ちといい、やはり、ホンダGLを何処かで意識していたのかも知れません。

巨大なタンクといい、何処から何処までもカクカクで美しさの感じられないデザインでした。その上、後にカウル付きバージョンが追加されますが、コチラはXJ650ターボを思わせる、これまたカクカクで醜いものでした。

値段も50万近く、ホンダCBX400Fよりも高価なものでした。これでは売れる訳も無いですね…。

当時のヤマハは、ヨーロピアンツアラーに拘りがあったのでしょうか?70年代後半のGX750といい、XV750Eといい、シャフトドライブの大型車を幾つも投入したものの、皆不人気に終わってます。

そして、この頃にはホンダのニューモデルの乱発が始まり、その結果、ヤマハはYH戦争に惨敗し、多くの不人気車の在庫を抱える羽目になってしまいました。そして、このバイクも、かなり後までカタログに掲載されていたものでした。

最低限、外装だけでも何とかすれば、もう少しマシになったと思うのですが…当時のバイク乗りの平均年齢を考えると、何れにしても、成功は望めなかったのかも知れません。



americancars4ever

アメ車のブログとして開設して13年目、車以外にも様々な身の回りの話題を取り扱っています。