利用が広がる背景には、菩提寺と檀家の関係が薄れていることがある。寺院経営サイト運営のオックスブラッド(東京・港)が15年に40~80歳代の男女500人に実施したネット調査で、自身が「檀家である」と答えた人は36%どまりだった。都市への人口移動も影響しているとみられるが「寄付金が頻繁」などと菩提寺への不満も目立った。
お坊さん便を通じて法要を請け負う僧侶に話を聞いてみた。都内に住む渡辺海智さん(40)は福島県にある実家の寺を兄が継ぎ、自分の寺はない。約1年前にお坊さん便に登録した。「お寺と付き合いたくはないがお経くらいは上げてほしいという人は多い。お経を上げれば感謝され、役に立っている実感はある」と話す。料金の定額表示にも「いくら出せば良いのか分からなければ利用者は不安になるだろう」と理解を示す。
みんれびの秋田将志副社長は「葬儀にお坊さんを呼べず困っている人がいて、お坊さんも檀家の減少などで困っている。われわれは両者をつないでいるだけ」と一歩も引かない構えだ。一連の対立はメディアでも報じられ反響を呼んだ。全日仏には「高額なお布施を請求された」「お布施が少ないから戒名を付けられないと言われた」と不透明さを批判する声も寄せられた。
寺院にも変革の動きはある。曹洞宗見性院(埼玉県熊谷市)は10年ごろお布施の定額化に踏み切り、金額を境内に掲示する。住職の橋本英樹さんは「仏教界は金額を分かりにくくすることで高額なお布施を受け取ってきた。透明化が必要だ」と話す。
日本消費者協会によると、日本人が葬儀にかける平均費用は13年時点で188万9000円とピーク時(03年)から2割減った。葬儀業界の競争激化に加え、核家族化で簡素な葬儀が広がったことも影響しているとみられる。
国民生活センターに寄せられた葬儀サービス関連の相談は15年度に763件と、過去10年で2.4倍になった。同センターは「介護費用の負担増などで経済的な余裕がなくなり、消費者の視線がシビアになっているのではないか」とみる。お布施の定額サービスが支持を広げている理由の一つかもしれない。
第一生命経済研究所の小谷みどり主席研究員は「人々が檀家であることにメリットを感じられなくなっている。僧侶が命や死の問題でプロとなり、日ごろから頼りにされる存在にならなければ寺離れは止まらない」と指摘する。仏教界は重い課題を突きつけられている。
■全日本仏教会の石上智康理事長の話
お布施とは僧侶の宗教行為への対価ではない。布施は自分の物を人様に提供することで執着心をなくして悟りに近づいていく仏教の重要な修行の一つだ。「これだけのことをしてあげたのだ」という具合に「与える行為」にとらわれの心があってはならない。そして一般の人がお布施をすることで僧侶の生活を支え、宗教活動が営まれていく。このような宗教行為を定額の商品として販売することに大いに疑問を感じる。私自身は事情がある人にはお布施なしで葬儀をすることもある。決してこちらから要求するような性質のものではない。
「お坊さん便」のようなサービスが出てきたことには複雑な社会的背景がある。寺側の要因として法外なお布施を請求するなど、仏教の精神をないがしろにするような行為があったのは事実だろう。地方の過疎化で寺の経営が苦しくなっているという事情もある。平素の寺や僧侶の宗教活動が十分ではなく、地域や一般の人々との信頼関係も薄れている。
一般の人々もお布施をいくら包んだら良いのか分からないという悩みを抱えている。檀家として寺の行事への参加や寄付などを求められることを好まない人々も増えてきた。しかし「親の法事くらいはしないとまずい」という純粋な宗教感情は脈々として残っているので、こうした人々が僧侶紹介サービスを利用しているのだろう。
ただ大局的に考えれば、なんでも商売になる物なら商品化してもうけてやろうという時代相がある。安易な世俗主義で、日本の現代社会の弱点の一つだ。商行為に対して節度がなさすぎる。いずれ国全体にツケが回ってくる。日本国民は自覚しなければならない。
その素地をつくったわれわれも厳しく反省する必要がある。アマゾンとの一件を巡っては全日本仏教会にも「葬儀で高額なお布施を要求された」「お布施が少ないから戒名を付けることができないと言われた」などの批判が来ている。全日本仏教会ではアマゾン問題への対応を考えるために加盟団体の代表者10人と学識経験者5人で構成する協議会をつくり、9月上旬から議論を始める予定だ。情報共有や原因究明を進め、各宗派の実践事例も持ち寄って報告してもらう。たとえば私が総長を務める浄土真宗・本願寺派では教えを伝える法話のスキルや儀礼を向上させるための研修制度の見直しなどに取り組んでいる。
今回の件では「菩提寺との信頼関係を築いているからアマゾンは利用しない」という声も寄せられた。これが本来の姿だ。寺や僧侶が本来の活動をするようになればアマゾンなどが入り込んでくる余地はなくなる。寺や僧侶の活動を本来の姿にしていくことが、この問題を解決するための本筋だろう。
第一生命経済研究所の小谷みどり主席研究員の話
現在、首都圏では死んでいく人たちの7~8割程度は菩提寺を持たないといわれる。高度成長期に地方から出てきた次男、3男が多いからだ。こうした人たちが多く亡くなるようになった20年くらい前から葬儀会社が僧侶を紹介するようになり、僧侶紹介業というビジネスが生まれた。「お坊さん便」はアマゾンに載ったことで注目を集めたが、ビジネス自体は20年来存在していたものだ。
全日本仏教会はアマゾンに抗議をしているが、アマゾンが運営しているサービスではないので筋違いだ。怒るポイントもずれている。にせ物の僧侶を紹介しているなら怒ってもよいが、実際に紹介しているのは本物の僧侶。彼らは檀家の減少で仕事がなくなり困っている。紹介業は需要と供給をマッチングしているだけだ。
お布施はサービスの対価ではないから金額を明示してはいけないという主張もおかしい。それなら車の交通安全の祈祷(きとう)などで金額を明示していることをどう説明するのか。お布施はお寺の重要な収入源。20万円などと価格を明示されることで相場になってしまえば、お寺は100万円もらえたかもしれないのに20万円しかもらえなくなってしまう。アマゾンや他の僧侶紹介業を経由した収入は課税対象であるため、お布施が非課税であることと整合性がなくなり、課税論議につながる可能性があるのも嫌なのだろう。
現在は菩提寺と「縁を切りたい」と考える人々も増えている。人々は檀家であることにメリットを感じられず、金銭的負担を求められる「負の遺産」ととらえるようになった。それが「墓の引っ越し」などの形で現れている。
宗教法人が宗教活動で得た収入が非課税になっているのは、教えを広めたり人の生死の問題で安心感を与えたりすることへの公益性が認められているからだ。しかし現状はただ葬式に行ってお経をあげるだけ。遺族や参列者が「教えを得た」という実感も得られず、葬式仏教にすらなっていない。まして生きている間は困ったときに占いに頼ろうとする人はいても、僧侶に頼ろうとは誰も思わない。
人々が宗教に頼ろうとするのは貧困や病気、争いなどの問題を抱えて苦しいときだ。お寺は自らのネットワークも活用しつつ、困っている人に解決策を与えられるようにならなければならない。たとえばがんで余命宣告を受けた患者の家族のやり場のない悲しみを発散できる場所を寺院が提供すればよいだろう。僧侶が命や死の問題に関するプロにならなければならない。寺の檀家になることは経済学的に考えればスポーツクラブの会員になることと同じ。メリットを享受できると感じるなら、会員は増えていくはずだ。
どこぞの偉い坊主の言い草、突っ込みどころ満載ですね。
>>なんでも商売にしてもうけるのは安易な世俗主義だ。節度がなさ過ぎる
だったら、戒名とやらに100万也もの大金を請求するのが、商売で安易な世俗主義じゃないとでも言うのでしょうか?
釈迦は、
「死んだ者は皆平等」と説き、自分が亡くなった時に、葬儀をしない様、弟子達に言っていたというのに、戒名で死者に階級付けするのが、釈迦の教えに矛盾していないのでしょうか?
しかも、葬儀で下手糞なお経を読むだけで凄まじい大金をせしめるのは、果たして釈迦の教えに叶っているのでしょうか?
昔は、寺を中心とした地域社会というものがあり、そこに人が集った訳ですが、果たして今の仏教に、それだけの力が有るのでしょうか?
仮に無いとしたら、それは、地域住民だけのせいなのでしょうか?
仏教に、地域住民のを惹き付けるだけの魅力が無いという事なのではないでしょうか?
正直、キリスト教の日曜礼拝の方が、遥かにためになる話しを耳にすることは出来ますし、イベント等で地域社会への貢献も怠っていません。
知人のチベット仏教僧に、この事を話したところ、アッサリと「そんなのは仏教じゃない」と仰いました。そんな大金が動く時点で、そんなのは商売でしか無い・・・と。
そして、現在の仏教の商売化、観光地化している事を嘆いていらっしゃいました。
>>「これだけのことをしてあげたのだ」という具合に「与える行為」にとらわれの心があってはならない...
ならば、アナタ方も、「戒名付けてあげたんだからお布施をよこせ」「お経を上げてやったんだからお布施をよこせ」という行為も間違いってことになりますね。是非、タダでやって下さい。
百歩譲って、今の日本の仏教の有り方が正しいとしても、例えば住職が平気でレクサスやメルセデスなんていう高級車を乗り回しているのは、如何なモノでしょうか?
人々の善意による「お布施」で、世俗を断ち切り、つつましく生活するのが、仏僧の本来の姿なんじゃないですか?
だからこそ、非課税なんじゃないんですか?
仮にメルセデスなんかを購入し、維持できる収入があるとしたら、何処かおかしいんじゃないですか?
世俗を忘れ、悟りを開いた者がメルセデスですか?俗物の権化ですね。前述のチベット僧は、車も持っていませんし、実に質素な生活をしていますし、それでも集まりとなれば、進んで自分から金を出す…こんな方です。
私の知っている牧師にしても、皆安い中古車ですよ。
>>ただ大局的に考えれば、なんでも商売になる物なら商品化してもうけてやろうという時代相がある。安易な世俗主義で、日本の現代社会の弱点の一つだ。商行為に対して節度がなさすぎる。いずれ国全体にツケが回ってくる。日本国民は自覚しなければならない。コレだと、アマゾンが不当にぼろ儲けしている様に聞こえますが、本当にぼろ儲けしているのは、アンタ達なんじゃないですか?
そこに対する根本的な不満があるからこそ、アマゾンのような「改革者」が出てくる訳です。
言ってみれば、中世ヨーロッパの腐敗し尽くしたカトリックに対して、宗教改革が起きたのと同じ事なんです。
全日本仏教会とやらの偉い坊さんが何を言ったところで、既得権を手放したくないだけにしか聞こえませんね。
正直今の日本の仏教は、釈迦の教えとは随分と違うのだけは確かです。
メルセデスを乗り回す金を、少しでも地域に役立てる様な気持ちがあれば、また状況も異なるんじゃないでしょうか?
結局は、金銭負担だけで、何のメリットも無いんですから、信者が減るのは当然です。しかし、この坊主の偉いさん、バカですね。
<追記>
昔、「おじゃまんが山田くん」というテレビアニメがありました。
4コマ漫画で有名な「いしいひさいち」の作品ですが、辛らつな社会風刺でも有名でした。
そこで、仏教のビジネス化、多角経営化、お経はテープで…という内容がありましたが、30数年も前に、この事を「子供向けアニメ」で取り上げた事に、改めて頭が下がる思いです。